「ホース・マネー」@名古屋シネマテーク | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

移民たちの故郷を想う唄が聞こえる
――時は,静かに過ぎ去っていくのか,それとも残酷に滞るのか



 ポルトガルに暮らすアフリカからの移民の苦難の歴史と記憶を,ひとりの男の人生を通じて描き出した傑作。ポルトガルの旧植民地領カーボ・ヴェルデから来たヴェントゥーラという人物が,実名で自分自身を演じている。フィクションでありながらドキュメンタリーでもあるという独特の作品。これこそ映画でしか表現できない世界観ではないだろうかと感じた。現実と幻影が入り交じり,現在と過去が浸透し合う,その混沌の中から,陵辱された記憶の肉声が喚び出され,現代ポルトガルのかかえる歴史的現実が照射されていく。 

 言葉とかストーリーはたぶんあまり重要ではなく,映像と声と身体が,黒人に刻み込まれた苦悩の記憶と感情をイメージとして浮かび上がらせ,観る者の心に焼き付ける。絵画的で瞑想的な闇と光が支配する,奥行きある構図の映像美には誰もが圧倒されるに違いない。宗主国に暮らす移民の埋もれた声を伝える素朴な歌声にも心,震わされる。たぶん「シン・ゴジラ」などは軽く凌駕する作品の完成度ではないだろうか。それを確かめるためにも,もう一度観たい。

 黒人移民の歴史を振り返る場合,やはりポルトガルは外せない国となる。おそらくポルトガルは,アフリカに初めてやって来て黒人を掠っていった国という位置づけになるのではないだろうか。そして,1970年代半ばまで,つまり最も遅くまで植民地支配をやめようとしなかった国でもある。1974年の「カーネーション革命」によって自由と民主主義,脱植民地化がポルトガル国民に約束された時にも,カーボ・ヴェルデ出身の黒人は排除されていた。つまりアフリカ系移民は人民の一部とは見なされていなかったのである。むしろ主人公のヴェントゥーラは,常に革命軍兵士を恐れながら,過酷な労働現場で生き延びた。そして今,そのおぞましい記憶が断片的に呼び覚まされていくなかで,最期のときを迎えようとしている。

 民主主義について考える場合に黒人の視点が不可欠であることを,私は鶴見俊輔さんの北米体験から学んだが,まさに黒人移民を民主化革命において排除したことが,今のポルトガルの停滞や混乱(教育・医療福祉の削減,移民の排除など)につながっているのではないだろうか。作品終盤にエレベーター内でヴェントゥーラと革命軍兵士(黄金で塗り固められた身体)とが長く対話する印象的なシーンがあるが,あれは革命の虚構性を告発したものだろうか。それとも黒人とポルトガル人との歴史的和解の象徴なのだろうか。とにかく民主化の虚と実,ポジとネガがはっきりとした矛盾として表れてきたのが,現代ポルトガルの歴史的現実であろう。それは現代の世界の問題でもある。すなわち民主主義とか人民といわれるものの中からはじかれてしまったマイノリティの人たちが常にいたし,今もいる。そうした歴史的に排除され忘却される恐れのあった人たちに光を当て,記憶のファインダーにおさめようとする本作のアート的な試みには,本当に心,動かされた。

 ラスト,病院を出たヴェントゥーラの目に映ったナイフを映し出したシーンには,正直,背筋が凍る思いがした。社会の周縁に追いやられた人々の絶望とともに,もう退っ引きならないところまで私たちは来てしまっているのかもしれない...。


 ※なお,現代世界の歴史的位相を見るうえで,この映画を含めて次の3本の映画は必見だと私は思う。
 ・シリア・モナムール
 ・シアター・プノンペン
 ・ホース・マネー