被爆者はなぜオバマを殺さなかったのか | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 「きみたち日本人は,アメリカにこれほど残虐な目にあわされて,腹が立たないのか!


 チェ・ゲバラが広島を訪れたときに満腔の怒りを込めて発したこの言葉が,若い頃にゲバラの伝記を読んで以来,ずっと私の胸の中にあって離れず,このブログでもアメリカ大統領は広島・長崎に来て謝罪すべきだと書いてきた。

 ゲバラが指摘する,このような自然な感情を,なぜ日本人は表せないのか。それは,今なお日本がアメリカの政治的・軍事的占領下にあるだけでなく,心理・感情面もアメリカによってコントロールされているからにほかならない。日本人は,無抵抗の一般市民を大量に虐殺されたことに対して,本来抱くはずの怒りや憎しみといった当たり前の感情をなくしてしまった。そして,日本政府もジャーナリズムも,アメリカに対して戦争犯罪責任を追及し謝罪を要求するという,これまた当たり前の責務を放棄してきた。

 このようなことを言うのは,日本の加害責任を等閑に付すことで先の日本の戦争を正当化しようという歴史修正主義的な意図からでは勿論ない。人類史に類を見ないあれほどの無差別大量虐殺(しかも人体実験を兼ねた)を受けたことに対して,人としての感情の発露を抑えられてきた状況,というか感情そのものを消されてしまった状況というのは,やはり異常であるし,そこから脱しなければ人間としての未来もないと思うわけである。だから私たちはアメリカに面と向かって原爆について問い質し,謝罪させるべきである。

 私は若いときからそう考えてきたし,今もその基本的な考え方に変わりはない。今回のオバマの広島訪問では,アメリカ国内のさまざまな事情や背景(世論・政治・教育など)から,すぐに謝罪することはあり得なかったとしても,今回がそのための一歩であったと思いたい。

 次こそはアメリカ大統領には広島と長崎に来てもらい,被爆者・市民の前ではっきり謝罪し過ちを認めてもらいたい。初めて核兵器を使用したアメリカの真の反省と謝罪がなくては,「核なき世界」など始まらないと思うから。

 アメリカに対するこういう気持ちは,被爆者たち本人においては私の何百倍も,何千倍も強いだろうと思う。彼らにあっては,アメリカの大統領に土下座して謝らせ,そのうえでぶん殴って蹴り上げても気持ちはおさまらないのではないか。であれば,被爆者はオバマを殺してもいいのではないか,とさえ思った。


 ――だが私は,オバマに語りかけた被爆者の言葉を知って,驚いた。「米国を責めていないし憎んでもいない」とする被爆者の態度からは,上に書いたようなマインドコントロールされた心理状態ではなくて,怒りや憎しみの感情を自ら理性で乗り越えてきた境地が見て取れた。

 「あなたの演説では,人類の幸せを掴むためにいろいろなことを語ってくれて,胸がワクワクしました。91歳ですけど,まだ生きますよ


 被爆者たちに憤りがなかったはずがない。しかし,こうやって笑顔でもって対立を乗り越え,和解していく道もあるのかもしれない。そんなことを教えられた今回の広島のできごとだった。

 そして広島の被爆者たちの姿は,フランス文学者・渡辺一夫の投げかけた「寛容は,自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という問いに対しても,一筋の光明となりうるように思えた。あの被爆者の笑顔を見れば,私はやはり「不寛容に対して不寛容になるべきではない」との思いを強くした。不寛容の最たるものというべき原爆投下を問答無用に行った相手に対して,被害者本人があのように寛容な態度をとれるというのは,間違いなくオバマを越えたノーベル平和賞ものである。否,そんな権威や名誉を通り越して,広島の被爆者は,真に平和を築くのに何が必要なのかを教えてくれる。被爆者がオバマを殺すわけなどなかったのだ。

 剣に頼る者は剣に倒れる。やはり憲法9条は不滅の意義を持っていると思うわけです。


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