金子ふみ子『何が私をこうさせたか 獄中手記』(春秋社) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…



 信じたくないことだが、熊本で地震が起きた際に在日朝鮮人に対する差別的デマが出回ったという。一方で被災地では火事場泥棒も相次いでいるという情報もあって、それがこういうデマを広める一つの背景にもなっている。この差別的デマが、関東大震災の時に流れたデマを模倣したものであることは言うまでもない。こういう災害時などの危機的な状況では、レイシストや排外主義者などがこれをチャンスと見て、彼らの本性が剥き出しになって表れてくる。

 このことは今の政権にも言えるだろう。熊本の地震を危機というよりはチャンス到来と見ているように思えてならない。すなわち、この熊本巨大地震を激甚災害に指定して被災者支援をするよりも、むしろ「緊急事態条項」に利用しようという憲法改正に前のめりな姿勢。これほど巨大な地震が起こっても原発を停めようとしない原発への異常な執着。食料をコンビニなどの販売店に届けて被災者から金をむしり取ろうとする弱者切り捨て。救援物資輸送にオスプレイの利用を無理やり決定し、国会では震災対応よりTPP審議を優先する・・・。安倍政権が何をしたいのかが露骨に表れてきている。いわゆるショックドクトリンとしての棄民政策。まさに本性を剥き出しにしてきたといっていい。

 最初に書いた差別的デマに関しても、被災者が不安を抱えて生活している中で、本来なら行政がデマを打ち消すような措置を取ることが必要であろう。関東大震災では、逆に警察がデマを助長し広めた結果、大虐殺が起きた。今回の熊本のケースも放っておけば、似たような事態に発展しかねない。

 関東大震災では、周知のように日本人の社会主義者や無政府主義者も多く捕らえられ虐殺された。標題の金子ふみ子も、大震災の混乱の中、保護検束(自警団の朝鮮人狩りの危険から保護するという名目)として捕らえられ拘束された。そして、1926年に23歳(生年不明のため25歳という説も)で獄中で自死するまでの約三年間、治安警察法違反や大逆罪などで刑務所に起訴・収容され続けた。本書はその刑務所内で書いた手記である。そのタイトルでもある「何が私をこうさせたか」への答えとして、一つには大震災が引き起こした「流言と騒擾」をあげることができよう。大災害時には、そういう罪のない異端者や少数者や弱者に、社会の矛盾、不安、ストレスが一挙にしわ寄せする。

 私はこの本を読んでいた時、熊本で大きな地震が起こったことを知った。この手記の冒頭は、関東大震災の時の様子を記したものである。あまり知られていない一節なので、ここに引用しておきたい。

 大正十二年九月一日、午前十一時五十八分。突如、帝都東京を載せた関東地方が大地の底から激動し始めた。家々はめりめりと唸りを立て、歪められ、倒され、人々はその家の下に生き埋めにせられ、辛うじて遁れ出たものも狂犬のように吠えまわり走りまわり、かくて一瞬の間に文明の楽園は阿鼻叫喚の巷と化してしまった。
 ひっきりなしに余震が、激震が、やってくる。大火山の噴煙のような入道雲がもくもくと大空目がけて渦を捲いて昇る。そして帝都は遂に四方から起った大火災によって黒煙に閉されてしまった。
 激動、不安、そして遂にあの馬鹿気きった流言と騒擾だ。
 それから間もなくであった。私達があの、帝都の警備に任じているものの命令によって警察に連行されたのは。

 (金子ふみ子『何が私をこうさせたか』春秋社p.11)


 元祖大逆事件で処刑された、ただ一人の女性である管野スガに比べると、大正末期の大逆事件で、朝鮮人の夫・朴烈とともに死刑判決(後に恩赦で無期懲役に減刑)を受けた金子ふみ子の知名度は低い。しかし、スガと同じく最後まで絶対天皇制国家に抗い、愛と革命に生きた女性として、私はふみ子の生き方にも興味を持った。以前、ふみ子の短歌をいくつか読んで、深く感動したことがあり、このブログでも紹介した記憶がある。この手記もずっと読みたかったのだが、今回安く入手できたので読むことができた。予想と違い、政治活動やイデオロギーに関わる内容はほとんどなかった。この点、天皇制国家への批判が充満していたスガの手記との違いである。ふみ子が朴烈に出会い、本格的な政治活動やアナーキズムに目覚めるまでの生い立ちが手記の中心であった。

 貧困、虐待、暴力、差別,いじめ、孤独・・・このうえない悲惨な境遇で育ってきたことが記されている。「何でそんなことまでするんだ!」と過去にさかのぼって叫びたくなるほど、家族や親戚から酷い仕打ちを受けながらも、ふみ子は懸命に生きた。読んでいて、その純朴な姿が目に浮かび、涙が出そうになる。そんなふみ子が17~18歳の頃、一人の朝鮮人男性、朴烈と出会い、「共に生きて共に死ぬ」ことを願う。この手記はその運命的な出会いで終わるのだが、その先を知りたい気分になって、ちょっと消化不良の感もあった。だが刑務所での厳しい検閲の中であるので、やむを得ないことである。

 さて本題なのだが、いったい何がふみ子をこうさせたのか。ふみ子自身、手記の最後で次のように述べている。

 何が私をこうさせたか。私自身何もこれについては語らないであろう。私はただ、私の半生の歴史をここにひろげればよかったのだ。心ある読者は、この記録によって充分これを知ってくれるであろう。私はそれを信じる。
 (本書p.337)


 自分の半生を読んだ読者に、その判断をゆだねているわけである。〈何が私をこうさせたのか〉すなわち、何がふみ子を無政府主義という思想に傾倒させ、そして遂には自死を選択させたのか。

 私なら資本主義の仕組みが貧困と格差を生み出し、ふみ子をこうさせたのだと強弁するかもしれない。鶴見俊輔は日本の国家がふみ子の生と死を弄んだと言う。瀬戸内寂聴は愛の悲しみを説く。また先に書いたように関東大震災という過酷な状況がふみ子に不運に働いた面もあるだろう。どれも正しいように思う。だが、どれもどこか違っているようにも思える。ただ一つだけ確かなのは、ふみ子の生はどこまでもピュアであったということ。そのピュアな生を貫くには、世の中も国もあまりにも不寛容であり不公平であった。ふみ子が自死を選ばざるを得なかった当時と比べて、今の日本はどれだけ変わっただろうか・・・。

 本書は、人が生きるとは何かを根っこから考えさせてくれる。それを考えない人たちが差別的デマを流しヘイトスピーチをやるのだろう。だから私たちは、ふみ子が遺したこの貴重な生の証を読み返し、何がふみ子をこうさせたのかをもっと考えなければならない。ふみ子が獄中で縊死したのは今から90年前,その5年後に出版されたこの手記には,今の時代と社会にも強く問いかける言葉と魂がある。今こそ問われる本物の愛と生...

 ああ、出来るなら私は、声をかぎりに世の中に向かって叫びたい。殊に世の父や母に呪いの声をあげたい。
 「あなた方は本当に子供を愛しているのですか。・・・」と。(中略)
 思わず私は感情的なものの言い方をした。けれどこれも、私のその時の、そしてそれからずっとの、私の絶望的な気持ちから出た言葉であると許してもらわなければならない。

 (本書p.71)

 私が無籍者だったのは私の罪であろうか。私が無籍者であったのは私の知っていたことではない。それは私の父と母のみが知っている事であり、その責任も二人が持つべきである。だのに、学校は私にその門を閉じた。他人は私を蔑んだ。肉親の祖母さえがそのために私を蔑み脅かした。
 私は何も知らなかったのだ。私の知っていたのは、自分は生れた、そして生きているという事だけであった。そうだ、私は自分の生きていたことをはっきり知っていた。いくら祖母が、生れていて生れないことだと言っても、私は生れて生きていたのだ。

 (本書p.93)

 生れ落ちた時から私は不幸であった。横浜で、山梨で、朝鮮で、浜松で、私は始終苛められどおしであった。私は自分というものを持つことが出来なかった。けれど,私は今、・・・私を富裕な家庭に生れしめず、至るところで、生活のあらゆる範囲で、苦しめられるだけ苦しめてくれた私の全運命に感謝する。・・・運命が私に恵んでくれなかったおかげで、私は私自身を見出した。そして私は今やもう十七である。
 (本書p.230)


何が私をこうさせたか―獄中手記/金子 ふみ子

初版 1931年7月10日
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