1944年、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所。
同胞のユダヤ人をガス室に送り込む任務に就く〈ゾンダーコマンド〉のサウルは、息子の遺体を正しく埋葬しようと、人間の尊厳をかけて最後の力を振り絞る。
昨日は仕事の合間を縫って、映画を観てきました。「サウルの息子」というハンガリー映画。映画館は伏見ミリオン座で、初めて行く映画館でしたが、この映画も初めて観るタイプの映画でした。こういう体感型というか、専ら主人公の顔や動きにフォーカスして撮られた映画を観るのは初めてでした。主人公の目線に合わせてカメラワークが展開されていくので、その場に居るような臨場感も半端ではなく、かなり疲れました。手持ちカメラで長回ししている場面などは、観ていてちょっと酔ってしまいました。
したがって画面に映し出されるものは極端に限定され、主人公の背後にあるものはぼかされて映され、実在感が薄れています。主人公が何を見ていたのか、逆に何を見なかったのか、何に目を背けていたのかが分かるタッチになっています。映像のサイズも、ワイドスクリーンではなく、昔のアナログテレビの4:3ぐらいのスタンダードサイズになっていて、かなり視界が狭められています。これも監督の演出の一部なのでしょう。
こういうPOV的、主観的な撮り方というのは最近では多いのでしょうかね。よくわかりませんが、戦争をテーマにした映画で、こういう手法をうまく利用すれば、迫力と衝撃が倍増することは間違いないでしょう。
こうした撮影方法も含めて、いろいろと物議を醸しそうな作品だったので賛否両論に分かれるだろうなと予想してネットでレビューを見たところ、意外と高い評価が目立っていました。戦争の悲劇というテーマの性格上、もちろんネガティブな評価もありましたが、全体としてかなり高い評価で定まってたように思います。カンヌでグランプリ、アカデミー賞で外国映画賞を受賞というのは、やはり伊達じゃないということでしょうか。
映画の舞台はアウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所。そこでユダヤ人同胞の死体処理・焼却をやらされていたユダヤ人特殊部隊(ゾンダーコマンドという)の一人、サウルの行動を追った作品です。わずか24時間足らずの出来事を描いたものですが、この24時間が近代文明200年の、いやヨーロッパ文明2000年の終着点であったわけです。この事実の意味、その重さを人類が受け止めるために、この映画はあるのかもしれません。その意味でこの映画は作られるべくして作られたと言えるでしょう。
主人公はほぼ無表情、台詞もあまりありません。説明的な描写はなく、BGMも流れず、サウルの目線から淡々と収容所の様子が描かれていきます。しかし、そこで行われていることは悲惨そのものです。すなわち、移送列車で運ばれてきた同胞たちにシャワーを浴びるためだとウソを言って服を脱がせてガス室に誘導し、残された衣服を処分して金品を集める。ガス室で大量殺戮が行われた後は血と汚物にまみれた床を掃除し、折り重なった死体を運び出し、焼却炉で焼いた後、灰を集めて川に捨てる。・・・
人間的な感情を押し殺さなければ生きていけない場所だったのです。ナチスの親衛隊がユダヤ人の遺体を「部品」と呼ぶような、「人間の尊厳」が破壊され尽くしたおぞましい世界に彼らゾンダーコマンドは生きていた。彼らは淡々とゾンダーコマンドとしての任務をこなすだけ。だが彼らも4か月ごとに殺戮・焼却される運命にあるのだ。そんな過酷な状況の中で、主人公サウルは「人間の尊厳」を救うために、一人の殺害された少年を自分の息子として、ユダヤ教の教義に則って手厚く埋葬しようとする。――
ヨーロッパ映画ではよく見られることですが、ちょっと宗教色の濃い作品なので、多少予備知識を持って観ないと理解に苦しむかもしれません。特にユダヤ教についてですが、ユダヤ教では火葬が禁忌とされています。すなわち、遺体を焼いて消滅させてしまうと復活できなくなるという教えがあり、サウルが少年を土葬しようと必死になっているのはそのためです。この映画が描き出そうとしている「人間性」や「人間の尊厳」は、このようにユダヤ教の教義に深く関わるものです。そして、正式な埋葬にはラビ(ユダヤ教の聖職者)がどうしても必要となる。だからユダヤ人コマンドの皆がラビを捜し出すのに協力するようになります。つまりユダヤ人が歴史から抹消される瀬戸際で、一人だけでもちゃんと埋葬し、未来につなげていきたいと願う気持ちが、ユダヤ人のコマンドたちを結びつけたわけです。
ただ日本人には、このように「人間の尊厳」が民族や宗教を背景としたものであることを真に理解することは難しいかもしれません。しかし、そこにしっかりと向き合わないと、70年前のアウシュビッツも、そして現在台頭するテロや難民問題についても、すべて上辺だけの理解に終わってしまうように思います。
あとでパンフレットを読んで知ったのですが、監督自身もハンガリー系ユダヤ人で、祖先をナチスのホロコーストで失っているらしいです。そして、この映画のモチーフも、幼少期のころから自らの中で育まれていったのだといいます。監督さんにとっても、この映画は成る可くして成った必然の映画だったのでしょうね。それから、この映画はかなり史実に忠実にできていて、監督さんは「アウシュヴィッツの巻物」を題材にして、この映画を作ったそうです。「アウシュヴィビッツの巻物」とは、ゾンダーコマンドたちが死の前に遺した、いわば証言集です。ナチスはユダヤ人を絶滅させた後に証拠をすべて隠滅してホロコーストの事実を歴史から抹消しようとしましたが、ゾンダーコマンドたちは密かに収容所の実態を紙に書き記し、瓶に入れて土に埋めていたのです。それが戦後発見されて、その内容をまとめたのが「アウシュヴィッツの巻物」です。
私は、実際に見終わった時にはラストの場面の意味がよくわかりませんでした。あれっという感じの終わり方だったので、違和感が少々残りました。最後にサウルらの前に突然現れた少年は、死んだ少年の蘇りなのか。最初からずっとリアリズムと体験性を追求してきたのに、最後に死んだはずの子どもがいきなり出てくるなんて、何かサスペンスとかホラー映画などのフィクションのような終わり方だなと、狐につままれたような気分でした。でも、あとでよく考えてみると、あの少年は、死んだ少年の蘇りというよりは、現代に生きる一般の少年なのでしょうね。私たち観客と同じようにホロコーストを目撃した人間。そして未来にそれを伝える使命を持った人間。その象徴があの少年だったのだと思いました。子どもは希望の象徴です。そう考えると、すごく深遠なメッセージがこの映画には込められているんだなと改めて感心しました。いろんな賞を受賞するだけのことはあるな、と。
サウルと一体となってゾンダーコマンドの任務を追体験することで、これまでにないほどホロコーストの実相に迫れたことは本当に貴重な経験でした。そして、人間が人間でなくなるその地獄絵のさなかでもなお(いや、そういう絶望のさなかにあるからこそ、かもしれません)、人間的な希望がかそけき光を放って輝いているのを感じて、かつてない感銘を覚えたのです。
また長くなってしまいました。最後に、パンフレットに載っていた解説文の一節を引用しておきたいと思います。
あらゆる感情を喪失してしまい、荒み切った表情のサウルが、ラスト近くで一瞬、見せる柔和な微笑みが忘れがたい印象を残す。それは、あまりに深い絶望に覆い尽くされた酷薄な世界のなかに、一条の希望の光が垣間見えたような瞬間だった。
ちなみに、映画評論家の町山智浩さんが下の動画でこの映画を絶賛しています。「アウシュビッツの巻物」や第二次大戦末期のハンガリーの事情など、映画の背景も解説してくれていますので、とても参考になります。ご興味のある方はご覧になって下さい。
町山智浩「サウルの息子」早くも2016年ベスト! たまむすび

