現在と同じく軍国主義の足音が聞こえ,いよいよきな臭くなってきた時代情況を背景に阿部定事件が起こったということを私たちは押さえなくてはいけないだろう。そのことを掲題の本は教えてくれる。猟奇的事件,情痴の果ての殺人として好奇の目でしか見られなかったこの事件が,単純に阿部定という女性の個人的資質に帰して済ませられる事件では決してなく,3ヶ月前には二・二六事件のあった先行きの見えない暗く息苦しい時代の中で起こった事件だということをはっきり見定めなければならない。決して特異な事件などではなく,その時代に誰もが起こしたかもしれない,そういう時代性を反映した事件であったように思った。本書の大半が阿部定に対する予審調書で占められているが,その陳述は当時の庶民の生活実態や感情,とりわけ女性たちの抱いていた情念や置かれていた立場を率直に伝える証言として貴重である。本事件は今までに何度も映画や小説などで取り上げられてきたが,そのほとんどが男女の愛やセックスを主題にしたもので,それはもちろん人間の本質に迫るという意味で事件の真相を照らし出すものであったけれども,だが本書を読んだ後に感じるのは,そういうアプローチでは不十分というか,セックスを含めて人間をもっと生活全体,生きることの全的な広がりにおいて描かないと,事件の全体像はわからないのではないかということである。貧しさとか女性差別,人身売買(売春)の横行,セックスの頽廃,教育の欠如,等々,事件が孕んでいる問題は社会と密接に関わって深刻で,かなり構造的であり,そしてそれは決して現代と切れた問題でもない。
1936年(昭和11年)――今言った二・二六事件が起こり,言論統制も強化され自由にものも言えなくなってきた中で,主に新聞によるセンセーショナルな報道もあって,阿部定事件は世間の耳目を集めることとなった。それは同時に大衆の求めていたものでもあったのだろう。二・二六事件の興奮さめやらぬなか,いずれはやってくる戦争で徴兵や増税などのツケを払わされることを肌で感じ取っていた庶民は,自らマスコミの煽りに乗って不安を紛らわし,危険な情況から眼を逸らそうとしていたのではないだろうか。
定の予審調書には何も政治的な問題意識とか社会に対する不満などは出てこない。まさにそこのところに暗い時代に生きた庶民の実存が示されているのではないか。そうした社会的・政治的意識が生まれ高まる条件が,庶民,なかでも貧しい家庭で育った人たちの中には欠けているのである。今日,明日に食べることで精一杯の暮らしがそこにはある。定の場合,日々の苦しい生活に追われ,ちょっとした借金から体を売るようになり,だが一旦その世界に足を踏み入れれば逃れようにも逃れられなくなる世の中の仕組みがあった。定はそこに嵌り込んでいったのだが,それは定に特殊なケースであったとは到底思われない。男性の性器を切り取るかどうかは別にして,売春に身を沈めた女性が定のようにセックスに溺れて事件を起こしたり,人生に絶望して心中などの事件を起こすケースは珍しいことではなかっただろう。問題は売春,人身売買を許していた社会や政治の側にあった。そして,そういう事件を興味本位で報道するマスコミや,それに乗せられる世間にも問題があった。しかし,そういう時代を根底において作り出していたのは,言うまでもなく,ますます強化されていた戦争体制である。このことから国民の目を眩ますには,阿部定事件は権力側にとっても実に都合のいい事件だったわけである。
本書には書かれていなかったけれども,1936年は1940年の東京オリンピック開催が決まった年でもある。決まったのは阿部定事件から間もない時期だ。当然のことながら大衆は歓迎した。招致合戦では欧米に対する対抗心を顕わにし,否が応にもナショナリズムは高まった。軍靴の音が近づきながらも,国民は阿部定事件に熱中し,オリンピック開催に浮かれた。そして知らないうちに戦争がやってきた。それが戦争というものの本質であろう。
今,気持ち悪く思い出すのは,「お・も・て・な・し」とか言ってIOC委員を誑かし2020年のオリンピック招致に成功した2,3年前のことである。あんな風に日本人のホスピタリティを誉め囃すのは芸妓に対する侮辱であり馬鹿の骨頂である。「おもてなし」と称して実際にやりたいのは公娼制度の復活とカジノの開設なのだろうし,その裏には戦争イデオロギーの刷り込みと従軍慰安婦の否認がある。今,なでしことか株高,AKBに浮かれている場合ではないだろう。2年前の特定秘密保護法の成立から日本の軍国主義が再稼働し始めたと私は思っている。その後の集団的自衛権行使容認の閣議決定,そして今回の安保法案という路線が戦前回帰であることは明らかである。軍国主義の幕開けとも言うべき1935年に美濃部達吉の天皇機関説問題が起こり,政府は一方的にこれを排したけれども,今回,安保法案の違憲論を政府の権限で無理やり押し潰そうとしているのもそれと似たような状況を示している。安保法案の合憲性を正当化するために砂川判決を持ってくるのは誰が見ても牽強付会,無茶苦茶である。今の政治にはもう論理や理性は通用しない。あるのは国民を従わせる権力,強制力のみだ。総理が正しいといえば通る世の中になりつつある。そして喜怒哀楽の感情や情念だけに訴えかける世の中になっていることも,阿部定事件の背後にあったものと同じものを感じるのである。
ところで本書を読んで初めて知ったのだが,阿部定の弁護人がゾルゲ事件で尾崎秀実の弁護を担当した弁護士(竹内弁護人)だったというのは興味深かった。定も彼を信頼し,出所後も長く付き合いは続いたという。
あのような暗い戦時下に,国賊のレッテルを張られた尾崎の弁護を引き受けた決断と,人々が好奇の目でしか見なかった阿部定の弁護を引き受けた気持ちとには,まったく異質の事件でありながら,確かに一脈通じるものがある。(伊佐千尋『阿部定事件』新風舎文庫p.190)
その竹内弁護人が書いた阿部定にまつわる随筆が本書に紹介されていて,事件の中身・経緯よりもこちらの方が読後,深く印象に残った。竹内は昔,名妓であった智照尼という女性から,一句をしたためた短冊を定に渡してほしいと頼まれたという。その一句とは
春の夜の客に嘘つけ小町紅
これは要するに色街に来る男を信用したらいけないという,娼妓として先輩であった智照尼から定への忠告を込めた句であろうが,しかし竹内の言うように,これは智照尼のように達観した者だからこそ言えることであって,必ずしも女性の純真な気持ちではあるまい。この境地に達したら,ある意味女性としてはお仕舞いで,迷うところに女性の人間味,人間臭さがあると,竹内は書いている。その点で,この句に対して定が返した歌は女性の本心が吐露されているようで感じ入る。定は「祇王寺の庵主智照尼の君より 御歌賜はりければ御かえし」と頭書して,こう記したという。
なよ竹の風にまかせし身にあれど たわまぬふしのなきにしあらじを
「たまわぬふし」の部分に定の面目,気概が躍如としているだろう。竹のような身であるけれども風に撓まぬ節があるのだと,智照尼の「客に嘘つけ」という忠告に対して自らの信念,意志を突き返している。定の人間性が見える歌ではないだろうか。それにしても,作者の伊佐千尋氏も書いているように,この歌を読むと定はかなりの才能を持った女性であったように思われる。何が彼女をあのような悲惨な人生に追いやったのか。本人には責任のない生まれや家庭,教育環境が彼女の一生を大きく左右したことを思うと,今につながる戦争体制の不条理,差別や貧困ゆえの人身売買に何ら救済の手を差し伸べなかった政治の無責任,胡散臭さを感じないではいられなかった。