ろくでなし子『ワイセツって何ですか?~「自称芸術家」と呼ばれた私~』(金曜日) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


 本書の著者ろくでなし子さんは,女性の性器をモチーフにした創作活動を続けていたが,昨年,自らの性器を3Dスキャンしたデータを配布したことが要因で二度にわたり逮捕・拘留され,ついに起訴までされた。本書は,第一回目の逮捕拘留の様子や,ろくでなし子さんが「まんこアーティスト」になった経緯などが,漫画でリアルに描かれている。逮捕拘留とか離婚・鬱などの辛い経験を描きながら,何度も爆笑を誘う明るい漫画だった。だが読み終わった後すぐに,この漫画には笑ってばかりもいられない深刻な問題が含まれていることに気づかされた。

 まず第一に私が問題だと思ったのは,こんな下らないことで逮捕拘留そして起訴なんてことがあっていいのか,ということである。これを認めてしまえば,権力は何でもできてしまうのではないか。今,この国の表現の自由というのは,もうすでにとんでもない状況に陥っているのではないか,と大袈裟ではなく真面目に思うのである。表現の自由ばかりでなく,身体の自由に関しても,この程度のことで,しかも逃亡や証拠隠滅の恐れがないにもかかわらず,人の自由を簡単に奪うことのできる権力の恐ろしさを,まざまざと見せつけられたような気がした。この漫画を読めば,誰もが感じるところではないだろうか。日本の警察や司法官権の人権感覚が如何に粗野なものかが,漫画にはよく出ていると思った。本書の寄稿で須見健矢という弁護士が書かれていたが,特に未決拘禁者(有罪が確定していないが拘禁されている人)の人権については,警察・司法の側ではほとんど考慮されていないように思う。例えば,検察庁や裁判所の狭い部屋に何人も詰め込まれて長時間座らされ,手錠をかけられたまま食事をさせられたりするシーンが漫画には描かれている。まだ有罪が確定していない人に対して,ここまでするか,というほどの酷い状況があるのがわかった。また,「罪を認めた方が早く留置場を出られる」という,おかしな仕組みがあるのを知ると,こうして警察に泣き寝入りして罪を認めてしまった人が沢山いるのではないか,表には出ない冤罪事件が実際は大量に生産されているのではないか,と疑ってしまう。日本の人権状況はこれほど劣悪なものなのだと認識を新たにした。

 そして第二に,何より本書が提起している核心的な問題は,タイトルに表れている通り,「ワイセツ」とは何なのか,という古くて新しい問題である。本書の寄稿文によれば,刑法175条でいう「わいせつ」とは,
(1) 徒に性欲を興奮・刺激せしめること
(2) 普通人の正常な性的羞恥心を害すること
(3) 善良な性的道義観念に反すること
が3要件で,これらは科学的に証明される必要のない規範,社会通念とされる。

 ろくでなし子さんの作品が,明らかに第一要件の「徒に性欲を興奮・刺激せしめること」には該当しないことは,誰しも同意するところではないだろうか。性器の3Dデータだからといって「わいせつ」だと決めつけるのは短絡的・一方的すぎる。そのように権力側が「わいせつ」の定義を恣意的に拡大解釈するようになれば,先にも書いたように,私たちの表現の自由はますます奪われていくだろう。つまり権力が「わいせつ」と言えば「わいせつ」になる。そこでは権力の感性が絶対化され,権力が規範そのものとなり,私たちの感情がそうした規範に同調を強いられる。そんな感情や精神の不自由,表現の不自由といった状況が今,作られつつあるのではないだろうか。本書を読んで私はそう感じた。そういう状況において,ろくでなし子さんが「ワイセツって何ですか?」と根源的な問いを投げかけたことの意義は計り知れなく大きいと思うのである。


 ろくでなし子が,権力の「あらゆるまんこはわいせつである」という主張に対して,自分のまんこはわいせつ物ではない,という主張をしたことは,今回の裁判の重要な争点になると思う。・・・
 (中略)
 ・・・まんことちんこが「何」なのかを権力が決めることをわたしたちは拒否する,ということだ。

  (小倉利丸「権力が定義する『わいせつ』を拒否する」,『ワイセツって何ですか?』金曜日p.136)


 今や司法の場で「芸術かわいせつか」という二者択一の議論は通用しない。権力側が,芸術であっても刑法175条は適用できるという立場をとり,摘発される側の「芸術作品だから,わいせつではない」という言い分を封じ込めてしまったからである。とするなら,ろくでなし子さんの作品が芸術であるかどうかは関係ない。それらがわいせつであるかどうか,ということのみが争われることになる。そこで,また元に戻るのだが,彼女の作品は少なくとも刑法175条の「わいせつ」第一要件には該当しない。このことは明らかであると思われる。にもかかわらず,権力側が彼女の弾圧に躍起になっているのは何故なのか。見せしめ,嫌がらせ,それとも・・・。自らの性器を3Dスキャンしたデータが「わいせつ」に当たるとして,ろくでなし子さんを逮捕し起訴した今回の警察・検察のやり方は,明らかに「やり過ぎ」,不当であると法的には考えられるのだが,寄稿で小倉氏が書かれているように,おそらく権力側は3Dプリンターによって精巧に複製される性器に「わいせつ」というタガをはめようとしているのだろう。「3Dデータ=わいせつ」という規範,社会通念を,上から作り上げ押しつけようとしているのである。そういう権力によって強制された「わいせつ」観念に対して,ろくでなし子さんは「まんこはわいせつ物ではない」として真っ向から対決を挑んでいるわけである

 この「わいせつ」論争に関わって,私が本質的な議論だと思ったのは,小倉氏が引用されていた大島渚の次のような発言である。


 私の考えでは,もともと「わいせつ」なるものは存在しません。「わいせつ」が存在するとすれば,それは「わいせつ」を取締まろうとする警察官・検察官の心の中にのみあるのです。(前掲書p.133)


 前にも何度か書いたけれど,いつの時代も表現の自由への規制,言論弾圧は「まんこ」から始まる。大島渚の『愛のコリーダ』裁判をはじめ,永井荷風の『四畳半襖の下張り』やその映画の摘発,ストリッパー一条さゆりの再三の検挙,奥崎謙三の天皇ポルノビラ事件の摘発など,「わいせつ」問題に対して権力側は一貫して弾圧を続けてきた。そうして社会に「まんこ」完全拒否という,海外から見れば異常なまでに過剰な「わいせつ」感覚が生まれ,それが社会通念化していった。だから,もう警察が取り締まる以前に「自主規制」が敷かれてしまっていて,「まんこ」のない立派な?殺菌された純水の日本社会ができあがったのである。だが,それは戦時下の大政翼賛的な芸術統制や,スターリン体制下の芸術政策と,何ら大差ないものであろう。私たちは,少なくとも性表現の分野では,大政翼賛会やスターリンのような権力が作った規範やルールに従った世界を生きているのである。そのことにもっと自覚的になるべきだろう。性表現のバリアフリー,ノーマライゼーションが今こそ必要だと思う所以である。権力が強制する定義や観念から自由になってみれば,「まんこ」のない社会は異常だという感覚を持つのではないか。ろくでなし子さんが欧米諸国のメディアからは引く手あまたで高く評価されていることは,「まんこ」が社会に定着しているからこそだろう。「まんこ」のアート表現を受け入れる素地ができあがっているわけである。日本でろくでなし子さんをメディアが取り上げないのとは対照的である。日本で彼女が登場して「まんこ」と発言すれば,そのメディアも番組も「一巻の終わり」だからである。

 今後ますます国家権力が表現の自由に対してさまざまな形で介入を深め,国家に都合のいいルールや社会通念を植えつけようとしてくるだろう。その時に私たちは「まんこ」と言える精神の自由を持ち合わせているかどうか。そのことを今,各自が厳しく自己に問わねばいけないと思う。特に表現者というのは結局のところ何のために表現活動をしているのか,と最後に問いたい。世の中にある価値を打ち破って,世界を変えるためじゃないのだろうか。既成の価値観をなぞるだけ,国家の嵌めたワクの中で表現しているだけじゃ,意味がないのではないか,と...。


園 人間は世界を変えたいから表現しているのであって,自分が有名になるための表現はダメだと思う。世界を変えたい欲望がないのに表現してる人って,不毛な感じがする。
 (対談:園子温×ろくでなし子「法すれすれまでいかないと表現にはならない」,前掲書p.95)