本書を読んでまず思ったのは,15年前に市場主義(新自由主義)からの決別を宣言した,こういう良書が出ていたにもかかわらず,市場を万能と見る市場主義がその後,日本でどうしてこれほどまでに蔓延るようになったのか,ということである。本書が出た15年前,すなわち2000年といえば,まだ小泉政権による新自由主義政策(構造改革)が始まる以前である。その時点ですでに市場主義の弊害(格差・不平等,貧困,医療・教育の荒廃etc)は現れ始めていたが,しかし,いわゆる「失われた10年」の中にあって日本経済は出口を見つけられないでいた。そこに出てきた小泉や竹中などの市場主義者が,日本の不況を救う救世主のように見えたのであろう。それがさらに,今のアベノミクスへの過剰な期待感につながっている。
著者は,すでに本書を書いている時点で,弱者の立場を代弁する経済学者がいなくなってしまったことを嘆いているが,そのことは現在も変わっていない。というより,経済学者とかエコノミストとかは,もう今では「強者の倫理と論理」を主張する人たちだという認識が社会に定着してしまったようである。著者は,例えば累進所得税制が人々の勤労意欲を減退させるとの市場主義者の主張に対して,次のように書いている。
実証されていないし,されそうにもない命題が,なぜ当然のことのように横行闊歩するのだろうか。一つには,そうした言説を口や筆にするエコノミストや経営者のほとんどだれもが「強者」であるため,みずからを利する「強者の論理」があたかも不滅の真理であるかのように,まことしやかに喧伝するからである。もう一つには,大方のエコノミストが書く,日本経済の長引く低迷をいやすための処方箋には,「日本に特有の平等志向を廃絶せよ」と特筆大書されているからである。そしてもう一つには,弱者の声をあえて代弁しようという論者が,昨今の経済論壇にはなぜか皆無に近いからである。(佐和隆光『市場主義の終焉』岩波新書p.32)
七〇年代の前半期には,「市場の失敗」は「悪」であると考える人が多数派を占めていた。ところが,いまや「市場の失敗」をかえりみない市場主義者が,エコノミストの多数派を占めるようになったのである。(前掲書p.216)
90年代にすでに日本の経済論壇は市場原理主義,「強者の論理」一色で塗りつぶされており,そうした状況は現在に至っても全く変わっていない。著者は本書で市場主義を批判する立場に立ち,私もそれに共感するのだが,かといって反市場主義や計画経済に与するわけでもない。いわば市場主義と反市場主義を止揚(いいとこ取り)する「第三の道」を提唱しているのだが,日本ではこういう中道左派というか社会民主義的な路線がなぜか定着しない。「第三の道」とか社会民主主義とかいう語はもはや死語のようだし,それをスローガンに唱える政党や知識人は風前の灯である。どうしてだろう。本書を読みながら,その疑問がずっと消えなかった。
日本人は,著者の言う相対化の視点がなかなか持てないという欠点がある。市場経済についても,それがあらゆる問題解決の特効薬であるかの如く絶対視してしまう。市場主義(新自由主義)の元祖とも言われるハイエクにしても,絶対的市場主義ではない。人間理性には限界があるから,人(政府)が市場に介入して経済を管理・制御することは不可能である。だから,仕方ないから一切を市場にゆだねるべきだという相対的市場主義なのである。しかるに日本人は,そういうハイエクの人間理性への不信,知的驕慢への警告という側面を見ないで,絶対主義的市場主義(完全競争はパレート最適を達成する!)に陥ってしまう。市場信仰という,いわば宗教になってしまうのである。それは右だけでなく左にも言える。かつてマルクス=レーニン主義は左派の聖典と化してしまった。そのように日本人は頭が固いというか,両極端に走りがちで,中庸というポジションをうまく使いこなせない。今のヘイトスピーチとそのカウンターとの対立が典型的だし,かつての近代経済学とマルクス経済学との対立もそうだった。効率と公正の関係にしても,どちらか一方に傾きがちで,根本的に社会のあり方を考え直して両者の両立する関係を築くという方向に向かわない。お互いを否定・排除するから建設的な議論が成立しないのである。
私たちは20世紀の後半,ヨーロッパや南北アメリカなどで新保守主義政権のもとに新自由主義的改革が断行された結果,市場の力が暴力と化し,社会的弱者を虐げてきた実態を知っているはずである。絶対的だと考えられてきた市場が相対化されたにもかかわらず,21世紀になって日本は絶対的市場主義のもとに同じ轍を踏もうとしているわけである。
おなじ時期(1990年代後半)に,イギリスとフランスの両国に中道左派政権が登場したことは,一国レベルでも,市場経済が万能でないことを示している。イギリスにかんしていえば,すでに述べたように,サッチャー首相が八〇年代に断行した市場主義改革が,所得格差を拡大し,公的医療と教育を荒廃させたことに対し,イギリスの選挙民の多数派が「ノー」といった。ことほど左様に,「市場の力」が暴力と化し,弱者を踏みにじる現場を,20世紀末になって,私たちは目撃したのである。(前掲書p.59~p.60)
本書で発せられた警告・提言は,小泉構造改革を経て,今再びアベノミクスという新自由主義政策・市場改革が強行されようとしてるなかで,いまだに有効だし,むしろ今こそ読み直される必要があるように思った。必ずしも経済の専門家を対象にした本ではなく,一般向けに書かれているから,市場経済の功罪を整理する上でも適しているだろう。著者の佐和さんは80年代に『経済学とは何だろうか』(岩波新書)で論壇に登場し,私もそれを含めて数冊読んだが,ちょっと経済学や思想の理解に異論があって,その後は読むのをやめてしまった。だが本書は20世紀のラストイヤーに出た啓蒙書としては,長い視野を持って時代をよく見通していて,特に市場主義でも反市場主義でもない「第三の道」を考えるには重要な書物だと思う。
自由な市場経済が資源の「効率的な配分」をかなえることを認めるにせよ,その反面,所得格差を是正したり,環境を保全したり,「排除」としての不平等をなくすという機能を,市場経済は残念ながらもちあわせていない。七〇年代前半には,「市場の力」の至らぬところを「市場の失敗」とよび,「市場の失敗」をおぎなうのが政府の役割であるとされていた。「市場の失敗」があるがままに放置すれば,市場経済は,個人間,そして国家間の経済的格差を拡大し,市場競争の敗者を「排除」の憂き目にあわせ,リスクの限りない高まりをもたらす。かくして,純粋な市場経済社会においては,経済的格差にとどまらず,社会的格差が途方もなく拡大し,「排除」という名の不平等が日常的に蔓延するようになる。(前掲書p.215~p.216)
「第三の道」の政治は,市場主義者の福祉国家批判,そして福祉のはらむ「矛盾」を九分どおり容認したうえで,「こうした問題があるから,福祉国家を解体せよというのではなく,だから福祉国家を再建しようというのである」。(前掲書p.182)
それから,本書で二人の外国人を紹介していた箇所も印象に残ったので,最後に引用させていただきたい。一人は社会学者のボードリヤール,もう一人はノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センである。日本人の既存の価値観や,経済学の前提に根本的な転換を迫るもので,しっかりと心に留めておきたいと思った。一人一人の個人が実感する豊かさを大切にし,また自分の幸せが他人の幸せでもあるような関係性を築いていくことが,著者の言う「第三の道」につながるのだろう...。
ボードリヤールがいうように,欧米の理想主義を逆転させた「国が豊かになってはじめて,一人一人の個人が豊かになる」というのが,日本人にとっての「豊かさ」モデルなのだとするならば,そして欧米のモデル「国が豊かであるためには,一人一人の個人が豊かでなければならない」が真だとするならば,いつになっても日本人は「本当の豊かさ」を手に入れることができず,ゆえにマテリアリズムの呪縛から解放されることはない,という憂鬱な結論にたどりつかざるをえない。日本人が「本当の豊かさ」を手に入れるためには,日本固有の「豊かさ」モデルを欧米の「豊かさ」モデルにおきかえることが,どうしても必要なのである。(前掲書p.95~p.96)
一九九七年のノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・セン(オックスフォード大学教授)は,経済学の教科書に登場する,みずからの効用を最大化する家計,利潤を最大化する企業を「合理的な愚か者」と決めつけたうえで,家計や企業の行動規範には,効用・利潤最大化と並んで,コミットメント(使命感)とシンパシー(共感)があるという。たとえば,環境を守るという使命感に駆られて行動する人がおれば,他人への思いやりが私利私欲を抑えこむという事例も少なくない。(前掲書p.156)
