本書で筆者が提唱している「道徳基盤理論」によると,道徳というものは人の心に訴えるいくつかの要素から構成されている。すなわち,〈ケア/危害〉〈公正/欺瞞〉〈忠誠/背信〉〈権威/転覆〉〈神聖/堕落〉〈自由/抑圧〉という道徳基盤である。筆者はこの道徳基盤理論に基づいて,アメリカで民主党が共和党よりも有権者にうまく訴えられなかった理由を分析し,次のように結論する。
リベラルは〈ケア/危害〉〈自由/抑圧〉〈公正/欺瞞〉の三つ,保守主義者は六つすべての基盤に依存する・・・。
(中略)
共和党は,民主党より社会的直観モデルをよく理解している。つまり,直接〈象〉に訴える術を心得ている。加えて,道徳基盤理論をよく理解しており,すべての道徳の受容器に刺激を与えようとする。
(中略)
道徳基盤理論の観点からすると,地方や労働者階級の有権者は,自らの道徳的関心に従って投票している。彼らは「真の味覚レストラン」で食事をしたいのではなく,政府が,犠牲者のケアや社会正義の追求に焦点を置く政策を実施することを望んでいない。デュルケームの社会観を理解し,六つすべての道徳基盤に依存した場合と,三つのみに基づいた場合の相違がわからないままでは,民主党は,人々が共和党に投票する理由を理解できないであろう。
(ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』紀伊國屋書店p.291,p.293)
このようにして筆者は保守主義の優位を説くわけである。ここには同時に,リベラルが勝つための必要条件が示されているともいえよう。すなわち,道徳における理性的な思考を過大評価する理性偏重主義を超えて,人々の情動・直観にも訴えていかねばならないということである。私たち理性的・リベラル的な立場からすると,なんでブッシュや安倍などのようなテロリスト政治家を人々が支持するのかは理解し難い。だが,本書の道徳基盤理論を読んでいくと,その理由が何となく見えてくるような気もしたのである。
一般の人々から見ると,リベラルは感情を持たない機械のようで,どこか近寄りがたい規範的な存在に映るのだろう。その規範・ルールから少しでも逸脱すれば,「反知性主義」だの「感情論」だのとレッテルを貼られ,相手にされなくなる。リベラルとは,人々にとってそういう堅苦しい存在なのかもしれない。それに対して保守主義というのは,大衆のさまざまな感情に広く訴え,徹底して一人一人に寄り添おうとしているのかもしれない。少なくとも大衆からはそう見え,そこにリベラルにはない人間くささや温情的なものを感じてしまうのだろう。
情動や感情の裏づけのない理性的思考・実践に偏りがちなリベラルに反省を促すという意味で,本書は有意味な書と言えるかもしれない。もちろん,理性の裏づけのない情動の暴走がもっと危険であることは言うまでもない。そのことは,ナショナリズムやポピュリズム右派の台頭などの部族主義・愛国主義的な傾向が世界中で(日本でも!)色濃く見られる21世紀初頭の現在,特に注意されるべきだろう。
この点に関連して,宗教の役割,宗教が社会に対してもたらす影響についての本書の考察も大変興味深く,現在の中東情勢やテロリズムの頻発などを理解する上で重大な示唆を与えてくれているように思った。宗教について論じた第11章の表題が「宗教はチームスポーツだ」とあるように,宗教の役割は集団の形成や集団への帰属・帰依に求められている。
私たちは,九〇パーセントがチンパンジー(個人主義・利己主義),そして一〇パーセントがミツバチ(集団主義・連帯主義)によって構成されるホモ・デュプレックスだ。繁栄する宗教は,これら両レベルで私たちの本性に働きかけ,利己性を抑制するか,少なくとも自己の利益の一部を集団に貢献する方向にうまく水路づける。
(中略)
宗教は,道徳の外骨格と見なせる。宗教的な共同体で暮らしていれば,おもに〈象〉に働きかけて人間の行動に影響を及ぼす,一連の規範,関係,制度の網の目に織り込まれざるを得ない。
(前掲書p.414)
宗教の実践は,数万年間,私たちの祖先を集団の形成に導いていった。だが,同時にそれを信じる者の目をくらます場合もあった。というのも,どのような人物,書物,原理でも,それが神聖なものと見なされると,崇拝者はそれを疑問視しなくなり,客観的に見ることができなくなるからだ。(前掲書p.420)
本書で宗教は,道徳心理学の第三原理,すなわち「道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする」という原理を追究する中で取り上げられている。上に見られるように,筆者は,宗教の役割を集団主義や部族主義など人々の協力・連帯に資するものとしてとらえているが,同時にそれは自集団中心的なものとなり,人々を盲目にするのだとも見ている。そして,このアンビバレントな見方が政治にも適用されて,人々がなぜ特定の政党だけを熱狂的に支持し,反対政党や多様な政治的意見には耳を貸さなくなり,そうして盲目になっていくかを説き明かしていく。
私たち人類は,自己を超越した何ものかに関心を抱き,そのまわりに他の人々とともに集い,より大きな目標を追求するチームを形成することにかけては途方もない能力を持つ。このことは,宗教の何たるかを説明する。また,多少修正すれば政治の何たるかも説明できる。(前掲書p.421)
ところで,例えば自爆テロというと,私たちはイスラームという宗教との関連で考えがちで,しかも,その原理主義とかシーア派といった,さらに狭い特殊な宗派・信仰と結びつけがちである。特に9.11以後はそう考える傾向が強くなっているように思われる。しかし,よく考えてみれば,かつての日本軍の神風特攻隊にしても,あるいはスリランカのタミル・タイガーやテルアビブ乱射事件の日本赤軍にしても一種の自爆テロを行ったわけで,彼らはイスラーム教徒であったわけではないし,特定の宗教の信者であったわけではないだろう。だが,そこには天皇教とかマルクス=レーニン主義とかの何らかの非宗教的宗教,イデオロギーが介在していたのは確かである。だから自爆テロを,狭い意味での宗教と結びつけて考えるのは,宗教に対する偏見や誤解を招くだけである。若者が大義のために自己を犠牲にするには,純粋な宗教というよりは,より広く世俗的なものも含めて何らかのイデオロギーが必要であったと考えべきだろう。
宗教は,集団の形成,部族主義,愛国主義に効果的に奉仕する。一例をあげると,自爆テロの原因は宗教ではないらしい。ここ一世紀のあいだに起こったあらゆる自爆テロのデータベースを作成しているロバート・ペイプによると,自爆テロは,異文化の民主主義勢力による軍事的占領に対する,愛国主義者の反応なのだそうだ*。またそれは,もっぱら地上攻撃に対する反応であり,爆撃に対するものであったことはない。要するに,神聖な祖国が汚されたことに対する反応なのだ。・・・
(中略)
内集団を美化すると同時に,外集団を悪魔の化身と見なす道徳マトリックスに人々を結びつけるいかなる世界観も,勧善懲悪を口実とする殺戮をもたらすが,多くの宗教はこの役割に適合している。つまり宗教は,残虐行為の原動力より,その共犯になりやすいのだ。
(前掲書p.413~p.414)
自爆テロというのは,宗教を原動力とするものでは決してなくて,むしろ「異文化の民主主義勢力」に対する「愛国主義者の反応」だという認識は重要だと思った。宗教は,愛国主義に基づいたテロ行為に手を貸す共犯者の役割を果たすということだろう。筆者は*の箇所に注をつけて,こうも言っている。
ほとんどの自爆テロが民主主義社会をターゲットとする理由は,民主政治が民意に左右されやすい政体だからである。独裁制をターゲットに自爆テロを仕掛けても,テロリストの祖国から独裁者の軍隊を撤退させることはできないだろう。(前掲書p.540)
自爆テロの原因をもっぱら宗教と見ることが,いかに事態を見誤らせるかがわかるのではないだろうか。(欧米の)民主主義勢力が神聖な祖国を汚し傷つけ奪ったことに対する(アラブの)愛国主義的反応!宗教はそれを促進する触媒の役割をはたすとしても,それ自体がテロの原動力ではない。当たり前と言えば当たり前の議論のように見えるが,特にイスラームに対する偏見に充ち,民主主義国家を絶対視する欧米の人たち(日本人も)からすれば,見失われた視点であるかもしれない。
現代の民主主義社会というのは,いわば無宗教,無神論者の社会であり,「道徳の外骨格」としての宗教がないから,共有する道徳秩序が失われて社会的な不安定,混沌状態に陥り,豊かさが先細りしていくだろうと筆者は見ている。つまり宗教の二律背反性を認めつつも,その積極的な側面を重視しているようである。私たちが宗教について改めて考える上でも,大切な論点が出されていると思う。そして,民主主義やリベラル的な価値を普遍的なものとして絶対視する私たちにとって,本書は「現状分析のための一種の叩き台」(「訳者あとがき」),人文社会系の学問に対する一つのチャレンジ,試論として位置づけられよう。本書では特に将来のビジョンとか「べき」論はほとんど展開されていない。何を本書からくみ取り,これからに生かしていくか,は読者である私たち次第である。
道徳心理学という未知の分野の書物だったので,いろいろと教えられることが多かった。社会心理学的な立場からする所見とはいえ,現代の世界が抱える大きな問題の一端に鋭く,大胆に切り込んでいて,政治学や社会学,経済学などの社会科学も本書の問題提起には学ぶところが多いのでないだろうか。
