橘木俊詔『ニッポンの経済学部』(中公新書ラクレ) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 当方,経済学部出身で,学部卒業後も暫く経済学関係の勉強に勤しんだこともあって,最近の大学の経済学部や経済学研究はどんな状況になっているんだろうという好奇心から,本書を読んだ。私が大学にいた頃は,まだマルクス経済学と近代経済学の対立という状況があって,それが学部のカリキュラムとか人事などにも反映されていた。特に私のいた大学はマルクス経済学の牙城みたいなところだったので,マル経的な学風とか学問的な批判精神が息づいていて,権力や体制から学問の独立は守られていてるように見えた。しかし東欧革命やソ連崩壊に伴ってマル経も雲行きが怪しくなり,マル経学者が研究をやりにくくなってきたことは私も感じていた。

 本書を読むと,昨今その状況は一層顕著になって,もうマルクス経済学は壊滅状態にあるようだ。ぎりぎり生き残っているところでもマルクス経済学には「経済学」という講座名は与えられず,「政治経済学」とか「社会経済学」とかいう名前で細々とオプション的な位置を与えられているにすぎない。先進資本主義国としては例外的にマルクス経済学の研究が盛んで,その意味では,輸入学問であったとはいえ,経済学には日本に独自の学問風土が築かれていただけに,近代経済学オンリーになってしまった日本の経済学部の現状は大変残念に思う。しかもアメリカ的な研究方法やスタイルが支配的になってしまった今の経済学の状況は,「冬の時代」というか,学問的な危機ではないかとさえ思うほどである。だが,こういう私の違和感や危機感は本書の著者には共有されていない。むしろ,こうしたアメリカ色に染め上げられていった状況,すなわち金融工学やゲーム理論がはびこり,ビジネススクール化する経済学部の現状を肯定し,歓迎さえしているような感じを受ける。

 経済学に関心のない人はこんな本は読まないと思うが,こういう大学の経済学部の状況は,実は現実の社会や経済の変化とも直接,間接に結びついていて,そういう観点から読めば結構,興味深く読めるのではないか,と思う。というのも元来,経済学という学問は現実の問題を相手にしているのであって,必然的に経済学は社会の変化を反映したものとなり,また社会に影響を与え得る力を持つこともあるからである。しかしながら残念なことに,本書にはそういう観点を前面に出した記述はほとんどなく,したがって本書は一部の経済学関係者や,経済学部志望の生徒とその保護者ぐらいにしか関心を持って読まれないだろう。そういう意味では,一部の限られた読者を対象にしたマニアックな本という印象を拭えない。折角,新書という一般向けの書物を出版するのであれば,もう少し現実社会との接点を持った,一般の読者も関心を寄せられるような書き方や視点を入れたほうがよいのではないかと思った。

 今日,経済学部において近経,特にシカゴ学派的な新古典派経済学が主流となってしまったことは,現在,経済政策においてリフレ政策や労働規制緩和などの市場原理主義,新自由主義政策が取り入れられていることと不可分に結びついている。また,日本の経済学部においてアメリカンPh.D.取得者が幅を利かせ,アメリカの大学院制度を無批判に取り入れて完全にアメリカナイズされてしまったことは,現在の日本の政治的・文化的な植民地状況と無関係とはいえないだろう。本書では,こういう経済学と現実社会との関係にはほとんど触れていない。著者は,アメリカの大学を模倣して変容してきた日本の経済学部の状況を無批判に受け入れて書いていることから,こうしたアメリカに従属した現実の社会状況についても特に批判的な考えは持っていないのだろう。近経学者らしいといえば,らしい本である。

 著者の橘木俊詔という人は昨今,格差論で有名になった学者だが,本書はその格差論に比べれば興味深く読めた。各大学の経済学部の比較や格付け,経済学部の歴史的な変遷,宇沢弘文や森島通夫など大物教授のエピソードなどは面白かった。この人はこういう大学論とか教育論とかの方が向いているのではないか,と思う。格差といった資本主義社会の本質に関わる問題は,近代経済学の手法では十分解き得ないからである。私は,今の格差社会は経済学が深く関わっていると考えていて,実は,その辺りのことが本書で多少とも触れられているのではないかと期待して買ったのだが,全くの期待外れであった。また,p.44~p.46の経済学史の整理も,古典派と新古典派を一緒くたに理解しているなど,大いに問題がある。アメリカの大学でPh.D.を取得した人であるから優秀な学者なのだろうが,かえってレベルが高すぎて経済学の足元の理解がおぼつかないのではないかとも思える。本書の帯の紹介文にある「経済学の本質に迫る」という部分はハッタリで,全く迫り得ていない。

 大いに不満な点は残るとしても,とりあえず日本の経済学部の現状を知れたことだけは有益であった。本書から窺えるのは,経済学という学問が一部のエリート学者による管理・政策の学として,一般の素人や市民から離れたところでますます「発展」を遂げてきているということである。これは,人間解放に資する市民の学問として経済学をやってきた私としては,本当に残念というか,学問も思想も「冬の時代」に入ってしまったように感じ,憂鬱な気分になる。

 最後に,多少とも経済学者としての良心が見えた著者の言葉を引いておこうと思う。


 これだけ日本の経済学者の中でアメリカンPh.D.が多いと,アメリカ流の経済思想を信奉する人が多くなり,日本の経済政策がアメリカ流の市場原理主義で固められる危惧があります。最高のジャパノロジストであるロナルド・ドーアが,日本の経済学がアメリカンPh.D.で毒されている,と述べたことがあり,私も少し気になります。(←ちなみに私は大いに気になります。橘木俊詔『ニッポンの経済学部』中公新書ラクレp.128)



 私はこう考えています。分析ツール,理論の道具立てとしては近経のほうがすぐれているけれども,マル経の思想的な考え方は消えない,と。とくに私の専門の格差論においては,格差は小さいほうがいいという規範を持っており,その立場からすると,マル経は心理的に相通じるところがなくはない。マルクスの経済分析手法が復権することはないだろうが,その思想を完全に放棄することはできません。(同上書p.56)