坂口弘『歌集 暗黒世紀』(角川学芸出版) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 先日出た,死刑囚(正式には死刑確定者)・坂口弘の歌集。一通り読んだ。タイトルの「暗黒世紀」とは,戦争と革命と虐殺の嵐の吹き荒れた20世紀,あるいは筆者自らも身を置いた左翼運動がその暗黒面と限界を顕わにした20世紀のことを指しているのかと思ったのだが,筆者の「あとがき」によると,地球温暖化が進行する21世紀を特徴づける言葉として選んだのだそうだ。とは言うものの,地球温暖化をテーマにした歌はない。「内容とタイトルの一致しない妙な歌集となりました」,と筆者自らも認めているのだが,地球環境問題を考慮したタイトルとは,何とも優等生的で,私としては意外な感じがした。

 坂口弘が生まれたのが1946年,浅間山荘事件で逮捕されたのが1972年,最高裁で死刑判決が出たのが1993年,その後は確定死刑囚として今日まで22年間,獄中で生きてきた。まさに彼は暗黒の中を生きてきたのではなかろうか。私は,本歌集を読んで,その内容とタイトルが一致しないとは全く思わなかった。歌のモチーフや題材はさまざまであるが,しかし全体を覆うのは暗黒の世界である。微笑ましい歌も子どもっぽい歌も,やはりどこか暗く悲しいトーンを帯びている。それは,過去の過ちに対する悔悛,そして死刑がいつ執行されるかしれない不安が彼を一時も離れず支配しているからだろう。


 過ちを悔ゆるまことの強さといふある人の言葉思ふ目覚めかな

 朝床にぶらんこの軋める音すなり落ちて軋める最期の音か

 こと終へて小菅の牢の窓明り今宵ひそかに二つ消えぬらむ

 われがいま闘ふ敵は人間(ひと)ならで時間(とき)なりときの淘汰なりけり

 過ちを正す機会を与え呉れしアロヨ氏にただ涙すわれは
  フィリピン大統領アロヨ氏は2006年6月24日,フィリピンにおける死刑制度を廃止した



 しかし,歌にすることで,そういう暗黒な状況を乗り越えてきたとも言えよう。本歌集全体を読んでみると,坂口の中では作歌することが生きることと等値とされているように思える。本歌集を読めば,彼が送る日々の獄中生活がどんなもので,どんな思いで過ごしているかが,手に取るようによくわかる。意外にも人との出会いがあるのもわかった。


 窓の視野やや広がれば心かくも明るくなれるものかと驚く

 声帯の退化防がむとわが馴らす早口ことばぞな止めそ看守

 ああ便器水琴窟となりぬらむ滴れる水の音のすがしさ

 話し好きの確定者なりき隣室のわれに手紙をよすることありき

 切りぬきの新聞写真の大判に海原多かり海見たきかな

 あらざるにわが子の名前を考えをり死刑囚にして独り身のわれが



 そして,彼がどんな人生を歩んできたかが,連合赤軍を描いた下手なノンフィクションや映画などよりも,よく伝わってくる。実際,本歌集ではそういう評論家や映画などを批判した短歌もあった。


 名指されて〈国民の敵〉と役所氏の指弾受くるとは思はざりしかな

 あるがままに生死巌頭に立つ身なり悪すぎる生といまは言えず



 過激路線との決別,出国拒否に至った経緯,判決批判,死刑制度廃止の訴え,政治問題への持続的関心,隣室の囚人のこと,重信房子のこと,母への思い,などなど,坂口の生(生活と人生)が全部,この歌集に入っていると言っても言い過ぎではないような気がする。彼にとって生きることは歌を作ることと同値なのだから,必然的にそうなるのだろう。


 縮みたる母の身体に縮まざる大き双手がいつも目に付く

 国内に残りて次なる人生がはじまると見き夾竹桃(けふちくとう)の花

 文学の道選りたらばと惜しみつつ重信房子の歌集を閉じぬ

 イラク派兵かくも安易に決めたるをいつか悔い深く省みをすべし

 〈牢のまはり桜さけり〉と母いへばそを反芻しさくらを想ふ

 ゆつくりと白夜の空を染むるてふ夕焼けと聞けばなほ生きたし

 

 ところで,佐佐木幸綱氏の「跋」によると,本書では一行書きになっているが,もともとは石川啄木にならって三行書きだったらしい。スペースの関係で,そうなってしまったという。ちょっと残念な気がした。本歌集には石川啄木をオマージュしたような作品もいくつか収められていて,彼も結局帰るところはそこだったのかと思うと,何だかシンパシーも覚える。その意味では三行書きの方がよかったなと無いものねだりをしてしまうのだが,そんなことよりも,とにかく生きて歌を届けてくれたことに感謝しなければいけないだろう。


 おのが名を言ひて悲しむ啄木よ励ますためにわれは言うなり
  「石川はふびんな奴だ。」/ときにかう自分で言ひて/かなしみみてみる  石川啄木

 春の夜や啄木の歌の過誤を見つけ口笛吹きて歩きたかりけり 

 わが至福よ!賢治のドラマを観つつかの岩手山を見,啄木を思ふ



 
 エピグラフに掲げられていた和歌が坂口の心そのものだと思った。

 飛ぶ鳥の声も聞こえぬ奥山の深き心を人は知らなむ ―古今和歌集535―


歌集 暗黒世紀/KADOKAWA/角川学芸出版

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