前回記事で,グアンタナモ海軍基地の返還なくして米・キューバの真の国交回復はないと書いたけれども,それは,あの基地の存在がキューバの主権を侵しているからにほかならず,アメリカが対等・平等・相互尊重・互恵・内政不干渉の立場からキューバの主権,民族自決権を認めることが国交回復には不可欠だと考えるからである。59年のカストロらによるキューバ革命はバチスタの独裁・悪政からキューバを解放したけれども,あの基地がある限り米国からの自立,民族の真の独立という課題はまだ完全には達成されていないと言ってよい。その意味で,キューバ革命はいまだ途上なのであり,この国交回復交渉という転機をとらえて,カストロの目の黒いうちに是非とも克服してもらいたい桎梏なのである。
しかしアメリカは,グアンタナモ基地の返還は議題にのぼっていないとして突っぱねているようである。オバマがChangeを掲げて大統領になったときに,イラク撤退とともにグアンタナモ収容所の閉鎖が公約にあったはずだし,アメリカ政府もそれに向けて動いていたと思う。近年は,この基地にある収容所が9.11後のアフガン戦争やイラク戦争で捕らえられたテロリストや捕虜を収容するのに使われており,しかも法や条約を無視した非人道的な行為が行われているとして人権団体など世界各国から非難の声が高まっている。21世紀に入って,グアンタナモはもはや冷戦の象徴というよりは,アメリカにとって,とりわけグアンタナモの閉鎖に反対する保守派(共和党)にとっては「テロとの戦い」の象徴的存在となっている。キューバ国内にある基地がアメリカの対テロ戦争に使われているというのは,アメリカ軍の片棒を担いでいるようなもので,キューバにとっては屈辱以外の何物でもないだろう。その意味ではキューバはまだアメリカ帝国主義の頸木から逃れられていないのであり,だからこそグアンタナモ基地の返還が必須なのだ。しかし逆から見ればピンチはチャンスであり,今回の国交交渉はアメリカ帝国主義を突き崩す最大のチャンスでもあるわけである。だからグアンタナモ基地の問題を正面に据えて交渉を行うべきで,アメリカもオバマの方針に従って率直にこの問題と向き合い,閉鎖・返還に向けて動くべきである。また国際社会も,経済封鎖の問題とともに,国際法やジュネーブ条約違反の疑いの強いこの基地と収容所については今後も注視していかなければならない。
アメリカ軍基地を多く抱える日本にとっても,この問題は他人事ではないのであって,これを機に安全保障とか同盟ということに関して再考すべきだと思うのである。単刀直入に言えば,平和憲法を持つ日本は,もう日米安保はやめて,アメリカからはできるだけ独立して進んでいくことが必要ではないかと私は思う。その際,「非同盟」という選択肢も検討すべきではないだろうか。前回も書いたけれども,ラテンアメリカではアメリカ合衆国なしの世界を作ろうという動きが広がっており,そういう「非同盟」の動きに日本も何らかの形で参加していくことを考えたらどうか。平和憲法と「非同盟」とは親和性が高いと思うのだ。特に9.11以後はアメリカが「テロとの戦い」とか「自由と民主主義を守る」とかの大義名分を掲げて,アメリカ一極支配の世界を作り上げようとしているわけで,「イスラム国」掃討を掲げる今もその流れにあることは言うまでもない。日本は,そういうアメリカが作っている大きな世界政治の流れに巻き込まれているのであって,その中で集団的自衛権の行使容認もあり9条改正もあるのだろうし,そういう流れを逆らえないものにしている強固な岩盤がアメリカ軍基地ではないかと思うのである。「戦後70年」といっても,70年間ずっと日本国内に米軍基地は置かれてきたのであって,特にその基地の多くを沖縄に押しつけることで本土の人々は戦後の平和を享受してきたにすぎず,その意味では「戦後」など,アメリカの作り上げた幻想にすぎないのである。だから沖縄で語られている「戦後ゼロ年」という認識の方が正しいと言えるかもしれない。
アメリカの海外基地の発端として悪しき前例となり,いわば諸悪の根源であるグアンタナモ基地の返還は,日本・沖縄の基地問題ともつながっているのであり,さらには,アメリカの覇権主義的支配を突き崩して公正・平等な国際関係を築いていくという意味で,全世界的な動きとも結びついているのである。そういう世界的な変革の問題としてグアンタナモ基地の返還問題を考えなくてはいけないと思うのである。
火のようなカストロの熱情は,隊員のすべての熱につたわっていた。むろんチェもその例外ではなかった。そしてチェは,天性の文章家らしく,それを四行詩にのこした。その最初の一節はこうである。
さあ行こう
黎明の燃えるような予言者よ
音もなくひそかな道をぬけ
きみがかくも愛する緑の島(カイマン)の解放へ
(三好徹『チェ・ゲバラ伝』原書房p.116)