STAP細胞事件の背景というか,ああいった研究不正や論文ねつ造を不可避的に生み出すような研究環境・組織,科学技術政策,という構造が今の日本のバイオ研究にはあることが,本書で暴露されていて興味深かった。その意味では,小保方さんの個人的な資質や理研の管理体制などに注目しすぎるのは,問題の全体像を見誤る恐れがあるだろう。
STAP細胞をめぐる騒動には,バイオの研究をめぐるあらゆる矛盾,虚構,ウソ,絶望が含まれている。(『嘘と絶望の生命科学』p.14)
バイオ研究の一部は,虚構の上にそびえたつ,砂上の楼閣だというのは言い過ぎだろうか。(前掲書p.157)
いわゆるバイオテクノロジーというかバイオサイエンスという学問分野が注目を集め出したのは,ここ20年ぐらいだろうか。確か二十数年前,自分の病気に関わって,権威ある先生の講演会を聞きに行ったとき,「近いうちに人の遺伝子は全て解明される」というような話を聞いて,これで病気の治療や薬の開発なども飛躍的に進むのではないかと,私自身,バイオの応用科学的な部分に期待を持ったものである。だが,この20~30年の経験は,たとえ病気の原因遺伝子がわかったとしても,それがいつ,どのようなメカニズムで発生するかを解明して治療につなげるというのは容易なことではないことを示している。その意味で,まだまだバイオは発展途上というか勃興期,「博物学」の時代なのだなと実感する。ましてや患者数の少ないマイナーな難病の治療に至っては,国の成長戦略や製薬会社のカネと結びついたバイオ研究の現状から見ると,はるか遠い未来のことに思えてきて悲観的になる。
確かにバイオは再生医療や難病の治療,食料危機解決などさまざまな可能性を秘め,現在政府の成長戦略の柱にもなり多額の予算が投じられている。だが(というか,それゆえに)一方で,バイオ系(医学や生命科学)では研究不正も多い。自然科学系で発生する研究不正の約4分の3がバイオ系だという。本書ではその原因,仕組みを,内部事情に詳しい著者が具体的に説明してくれている。経済成長と結びついた成果至上主義,研究費獲得のための過酷な競争,カネに歪められた研究,論文雑誌(サイエンス,ネイチャー等)掲載のためには手段を選ばずの世界,教授の絶対的権力,・・・等々。バイオ研究の実態が少しわかったような気がした。「小保方さんより黒い人がいる」(前掲書p.9)というバイオ関係者の持った感想は,日本のバイオ研究の深い闇を示唆している。
バイオ系の世界を知る上での一つのキーワードである「ピペド」という言葉を,この本で初めて知った。バイオ研究で必須の小道具であるマイクロピケット(小保方さんがピンクの割烹着を着て右手に握ってた,箸くらいの長さのヤツ)を握って,朝から晩まで奴隷や土方やのように働かされている院生やポスドクらの若手研究者を揶揄して使われる呼称らしい。
私の知人は大学院生時代,思った通りの研究成果が出なかったため,指導者から殴られたという。彼はそれが嫌で研究室をやめたそうだが,こんな話を聞いていると,バイオ研究はブラック企業そっくりではないか,と思ってしまう。
ピペドという言葉は,バイオ研究の現場のブラック度を表す言葉なのだ。
(前掲書p.32)
本書では,教授が研究不正を行ったことに抗議して,助手が服毒自殺した事例も紹介されていて,ブラック企業化するバイオ研究室の悲惨な実態が暴かれている。ただ全体の印象として,本書で描かれていたバイオ研究の現状は,私が想像していたものとそんなにかけ離れたものでもなかった。分野によって程度の差こそあれ,大学とはこのようなブラックで北朝鮮的な組織である。私も長いこと大学の中にいたので,この本に書かれていたことは何となく感覚的にわかる部分が多かった。私は人文・社会系だったので,理系の,特に実験系の大変さはよくわからないが,知力・知性より体力勝負の面が強い歴史研究をやっていたので,労働集約的で実験をしまくれば成果が出やすいバイオ研究とも多くの共通項があるように感じた。教授によるアカハラとか,論文の盗作問題,不公平な人事など,理不尽なことを自ら体験してきたので,本書に書かれている問題は実感としてよくわかる。特に社会科学系ではどうしてもイデオロギーが絡んでくるので研究業績の公正な評価というのが難しく,しかもそれが人間関係に波及し,過激な人格攻撃に発展したりもして,もしあのまま大学の組織に身を置いていたら,絶対に病んでしまっただろうなと,今になって思う。
ピペドにしても,奴隷のような状態は同情するばかりだが,私の経験からすると,不安定な地位ながらもポスドクになって,少ないながら給料をもらっているだけ,まだ良いとも思ってしまう。私の場合,いろいろと紆余曲折,休学期間などがあって,博士課程入学から9年目に博士論文を出しのだが,それまではずっと無給のオーバードクターだった。その間,塾・予備校のアルバイトで食いつないだ。博士を取っても大学のポストは得られず,結局,研究とは全く関係のない仕事をすることになった。大学院を出てからの就職という点では,本書に書かれていたバイオ系よりも,文化系の方がよっぽど厳しいと思った。大学の常勤ポストには簡単には就けず,バイオ系がつぶしの利かない分野であることはその通りだと思うが,規模が小さいなりにもバイオ産業は存在するし,求人だってなくはない。バイオ以外の技術系・材料系の職に就けなくもないだろう。だが文系,なかでも歴史研究とか思想系の人間が民間企業に就職することはほとんど不可能である。就職するとしたら,せいぜい出版社とか予備校とかぐらいだろう。90年代以降,大学院重点化で院生の数が急増し,博士の数もそれに比例して増えてきているにもかかわらず教員は増えない現状で,大学のポスト,研究者の地位に就くのは至難の業である。就職とか将来設計という面から考えれば,文化系で大学院の博士課程まで進むというのは無謀な試み,ギャンブルである。
そういう意味では,著者が最後に,バイオの若手研究者に向けて「ピペットを捨てよ,町に出よう」と呼びかけていることは,もっと広く人文・社会系の研究者志望の人たちにも当てはまりそうである。まさしく寺山修司の書名通り「書を捨てよ,町に出よう」である。大学でのブラックな研究組織に属しているよりも,もっと自由に研究できる場があるのではないか。なければ市民のなかに作ればよい。確かに研究条件(研究費とか研究器具とか資料とか)に制約はあるだろうが,カネや名誉,地位,見栄のために歪んだ研究をするよりは,まっとうな研究ができるのではないだろうか。それは,以前に読んだ故・廣重徹さんの名著『戦後日本の科学運動』で述べられていた,科学者を主体とした市民的運動という問題意識にも連なる。大学がもっと市民に開かれたものであるなら話は違うが,今や内部の研究者によって囲い込まれ私物化されてしまっている以上,近い将来,教育機関としてはもう機能を果たさなくなってしまうのではなかろうか。だれも大学なんかに通わない日が来るんではないだろうか。小保方さんとかピペドとか,私みたいな失業者しか生み出さない大学は一度崩壊してしまった方がよい。大学院重点化がそもそもの間違いなのであって,これ以上犠牲者を出さないうちに一刻も早くマスプロ的な大学院は解体すべきだ。本書を読んで,日ごろ思っていたことが故なきことではなかったのだなと意を強くした次第である。
えっ,バイオ研究なんて,大学や研究期間でしか研究できないって?
確かに,遺伝子組み換え実験や,マウスを使った実験などは,定められた場所でしかできないだろうし,実験器具をどうするか,という問題はある。けれど,逆にこの問題さえ解決してしまえば,実は大学や研究機関でなくても研究が行えるのではないだろうか。・・・
(中略)
自宅も含めて,大学の外でバイオ研究ができる時代が来つつある。確かに生き馬の目を抜くような最先端の研究はやりにくいかもしれない。しかし,地域社会に貢献する研究,あまり患者数がおらずなかなか注目が集まらない難病の研究など,手付かずなテーマがころがっている。それこそ,ある地域にしかいない小さないきものの生態を調べてもいい。
・・・いつまでも奴隷でいる必要はない。自分という城を持つ殿様として,クラウドファンディングやオープンアクセスを利用して,好きに研究したらいいのだ。
なんかワクワクしてこないだろうか。大学や研究機関でなくてもこんなことができるのなら,何も不正をしてまでいい論文を書こうなんて思う動機がなくなってしまうではないか。バイオは奴隷の身分に身をやつしてまでやるもんじゃない。ピペドなんてさっさとやめてしまえ!大学院なんてボイコットしてしまえ!
(前掲書p.246~p.248)
※ちなみにパクリっていうのは,こうやってやるもんだ。アウトロで小椋桂パクってます。
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