昨日,意見広告運動をやっている市民グループの機関紙『市民の意見』が届けられたので,今日はその中でちょっと興味を引いたものを紹介したい。市販されているものではないから,あまり読んでいる人も少ないだろうし,多少とも参考になればと思ったので。
東京新聞の「こちら特報部」という特集面を担当している田原牧さんという方が,編集局長宛てに来た一通の抗議メールを,「推進派の心性を読む」という記事の中で紹介していた。そのメールは,政府の新エネ計画で生き残った高速増殖原型炉「もんじゅ」を扱った東京新聞の特集記事(こちらに記事の全文が掲載されています)の中に,担当デスク(田原さん)が添えた所感に対する抗議だったという。
まず,その所感とは次のようなもの。
「もんじゅ」は無用の長物と,福島の事故の前から言われていた。だが,事故後も維持すると決めた。書きにくいことを書く。これは福島事故に関連して亡くなった人々を再び殺すことに等しくはないか。事故が反省の礎になれば,無念も浮かばれるかもしれない。しかし,そのかけらもない。法に触れぬ罪だ。
このツイッター1回分程度の短文に噛みついてきたらしい。そのメール文には原発推進派の心性が映し出されていると田原さんは書かれているが,私も同感であったので,ここにその一部を引用させていただく。メール送り主は,「日本原子力研究開発機構・広報部長」のS氏。
…24日の貴コラム「デスクメモ」における表現,「~。これは福島事故に関連して亡くなった(略)」に関しては,原子力の研究開発に携わる者として決して許すことのできない表現であります。貴コラムの言う,福島事故に関連して亡くなった人々とは具体的にどのような方々か,そして何をもってそのような方々を「再び殺す」などと言えるのか,私どもは事故を教訓に福島以後,更なる安全性を追求し,我が国のため,人類のため,原子力の平和利用を進めていく自負とともにそこに誇りをもっています。今後の原子力の存在そのものを否定するのは自由,しかし一方,人類のためのミッションとして原子力研究開発・平和利用に携わる者として貴コラムのそのような考え,言葉は存在しないということをここに明確にお伝えしておきます。
この抗議メールに関して,田原さんは2つの点を指摘し批判している。一つは,事故後3年間で1千人以上が関連死しているという事実を認めようとしない点。二つ目は,「人類のためのミッション」なる言葉に表れているように,自己愛,自己承認願望の表出という点。いずれも現政権に通じるメンタリティーであり,戦争を賛美する心性と酷似していると裁断されている。(なお,もしこの田原さんの記事の中身を読みたい方がいらっしゃればご連絡下さい。)
さすが原発問題を追及している東京新聞報道部デスクだけあるなあと思ったわけであるが,この抗議メールを読んで,もう一つ私が指摘しておきたいと思ったのは,このS氏および推進派連中がいまだに「原子力の平和利用」なる語を使って,「もんじゅ」や原発推進を正当化しようとしている点である。「原子力の平和利用」という着想・観念は,第五福竜丸が被曝した1954・3・1以降,国内で盛り上がった原水爆反対の声を押し潰し,日本人の原子力アレルギーを取り除くためにアメリカが大々的に展開したキャンペーンや心理戦略の中に組み込まれた。その下地の上にアメリカ製の原子炉が導入されていく(最初はイギリス製だが)。アメリカにとっては,まさに毒を以て毒を制す,という作戦が当時は成功したわけだが,チェルノブイリや福島を経験した今,「原子力の平和利用」が幻想でしかなく,やはり毒は毒でしかなかったことを私たちは悟っている。にもかかわらず,いまだにこの幻想に取り憑かれているのは時代錯誤であるとともに,「原子力の平和利用」のフェティシズムというよりほかない。推進派にとって原子力発電を正当化し推進するための最大,最後の拠り所はこの「原子力の平和利用」なのである。それしかないのである,今も昔も。田原さんが指摘している推進派の心性も,まさにその論理の中で涵養され,揺るぎないものとして確立していったものであろう。それほどに「原子力の平和利用」の宣伝・洗脳効果は強力・有効で,50年代以降の日本全体を闇として(当時においては光として)覆った。
ちょうど今,故・廣重徹さんの名著『戦後日本の科学運動』を読んでいて,いろいろ学んだのだが,特に1954年に突如として原子力予算が現れて以降というもの,進歩的といわれる科学者も大部分は「原子力の三原則(民主・公開・自主)」を盾に,それが実現できる見通しが立たないから原子力研究には反対するといった態度で運動していたのであって,その意味で究極的には「原子力の平和利用」に賛成する立場だったわけである。ただし,それは政府や独占資本がアメリカとともに秘密裡に進めようとしていた原子力政策への批判原理・運動としては有効であった。当時の最大の懸念は,原子力の研究・利用が核兵器の生産につながるのではないかというところにあったので,原子力を平和利用に限定し軍事に転用しないことを政府・独占資本に取りつけることが当時の運動において重要視されていたのだが,今では「平和利用」そのものが平和と敵対し,「安全性の追求」が安全とは正反対の方向に進んでいることに,私たちは直面している。すなわち,「原子力の平和利用」なる悪魔の言葉の,本当の意味を見抜き,フェティシズムからは解放されている。だからこそ,S氏のいまだにフェティッシュな言葉遣いに幼稚さ,気持ち悪さ,不気味さを感じざるをえない。
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