「経済学は何をすべきか」補足 | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 前々回の記事で紹介した『経済学は何をすべきか』についてちょっと言い足りないことがあるので,補足記事を書きます。

 今,経済学者とかエコノミストとか言われている連中は結局,企業の利益を中心に思考することしかできないんですね。そのことを『経済学は何をすべきか』を読んで確信しました。日本企業の収益率や資本生産性が低いことに関する議論(第Ⅱ章附論「資本生産性は倍増できる」)でも,それは専ら,投資家であるアセットホルダー・運用会社の問題として議論され,そういう投資家目線からしか改革案を提案できないんですね。彼らは,投資家が企業を強力に律しコントロールするコーポレートガバナンスをいかに作り上げるかということに強い関心を持っていて,それこそが経済成長の鍵となると考えているわけです。


 企業の資本生産性に直接・間接にかかわっている「アセットホルダー(金主)」「運用会社」「企業」の全体を「責任連鎖」としてとらえ,それぞれの主体が同じベクトルで動くようにしなければならない。つまり,①企業自身が資本生産性を厳しく意識した経営に移行する,②株式に投資している運用会社は企業経営の資本生産性を厳しく問うとともに,その向上にコミットする,③運用会社に株式投資を委託しているアセットホルダーは運用会社が資本生産性向上にコミットしているか監視し評価する,という連鎖を創りあげる必要がある。(『経済学は何をすべきか』p.150~p.151)


 さらには,政府が行うべき政策として,資本生産性とリンクさせた上場規制,長期投資と整合的な会計基準や税制の改革なども提言しています。要は,これまでは株価収益を第一に考えてきた機関投資家を個別企業の利益に結びつけて資本生産性を倍増させようというわけです。その限りで政府の支援,規制改革は大歓迎です。こういう資本市場改革で資本生産性を向上させることこそが,日本経済を長期的に成長させる原動力と考えているわけですね。株主資本主義といいましょうか投資家資本主義ですね。日本の経済学者は経済成長とか経済政策をもう投資家目線でしか語れなくなってしまったんでしょうかね。そこにしか成長の糸口を見出せないんでしょう,残念ながら。

 そういう立場ですから,労働市場の流動化などは自明の前提になっています(第Ⅱ章「日本の経済論争はなぜ不毛なのか」)。


 いまの日本型正社員というのは,労働市場で流通するには重すぎます。ここが変わらないことには,いろいろなものが変わってきません。単に解雇規制を変えるとかいうことではなく,多様な社員が増えるようなかたちで,もう少し人が動くことが社会の変革を促すのだと思います。何でもやりますからといって会社にしがみつくのではなく,自分には能力があるのだから,こんなところはいやだと思えばほかの会社に行く,そういうことが普通にできるような社会を目指すべきではないでしょうか。(上掲書p.133)


 この人は,無限定正社員を減らして限定正社員を増やしたいみたいです。非正規は減らすべきだと言ってますが,そんなのは詭弁ですね。要は労働移動・流動化を徹底的にやりたいんです。企業・株主・投資家の立場から資本生産性を上げるためには,それは当然やりたいでしょう。労働者の環境変化などに,いちいち構っていては企業の収益は上がらない,というのが本音でしょうね。もうそこには労働者とか国民の目線は入る余地はないわけです。

 「専門家たちが国民目線に立つことも大事です」(上掲書p.91)とか言ってますが,読者へのリップサービスに過ぎず,具体的な議論の中身に国民目線は入っていません。何度も言いますが,専ら投資家目線から,いかに資本生産性を上げて企業の収益を増やすかという点に全神経が集中しています。労働分配率の問題は全く議論に出てきませんでした。私なんかは,分配率の問題こそ,タイトルにある「経済学は何をすべきか」の主要テーマになるべきだと思うのですが・・・。

 第Ⅲ章で書かれている「市場の質理論」にしても,そこに国民や労働者は登場してきません。「より良い市場の形成によって現実の経済問題を解決しようという,新しい経済学的視点に立つ」と言ってますが(上掲書p.162),内容がちょっと曖昧で,私からは特に新味のある議論とは思えませんでした。経済の健全な成長には質の高い市場が不可欠であるという点には同意しますが,問題はその質の高い市場の中身ですね。

 第Ⅲ章では「伝統的な経済学では市場は外生的に与えられた組織と考えられてきたから,市場を内生的なものと見て,経済主体の自発的行動の結果として説明する」というようなことを言ってますが,何を言ってるんだろう?と思います。ここでいう伝統的な経済学が何を指しているのかはっきりしませんが,もともとアダム・スミスが想定していた市場は内生的・自生的で自律的なものとして捉えられてきたし,あのハイエクですら市場を歴史的な生成過程において捉えています。筆者の言いたいことがイマイチよく解らないのですが,おそらくは新古典派経済学の市場観を批判したいのでしょう。


 実際は,環境さえ整えば,市場は自らを高質化し,問題を解決する力を持つ。それが経済の健全な発展成長を支えてきた。自然と市場が高質化する環境をどのように整えるかを考えるべきだ,というのが今回の金融危機についても,「市場の質理論」が教えるところである。(上掲書p.162)


 そして市場の質を測る尺度として公正性という観点を提示し,それを担保するために市場インフラ(法律やルール,制度,組織,意識,倫理,慣習,文化など)を整えることの重要性を説くのですが,こんなことはすでに古典的な経済学が説いていることで,経済学を多少ともかじった者からすれば常識に属することです。例えばアダム・スミスにおいて,自由と公正とはコインの裏表の関係にある価値です。スミスはよく「自由で公正な競争」という言葉を使っていますが,そういう競争を阻害する重商主義的諸規制・諸制度を徹底的に批判するわけです。現代は,そういう自由で公正な競争を担保するシステムとしての市場の本来的な意味や機能が見失われているというか,勘違いされて捉えられているのです。公正の観点は端から市場のシステムと分かちがたく結びついているのであって,今に始まったことじゃない。そんなことを今さら言い出すのは,市場というものを,それこそ外生的に与えられた組織として見ていて,市場の本質を理解していないからとしか思えません。だから市場の本来の自律的な働きを取り戻すという観点から「市場の質理論」を展開していくなら解りますが,市場にいかにも新しい視点を提供する研究であるかのような第Ⅲ章の議論には承服できないわけです。

 それから,市場を捉える上で一番重要な点は,本来,市場の根底には,他者への共感能力を社会の紐帯とすることで初めて自らの利己心を行使する倫理的市民がいるということです。そういう諸個人が確立されていて初めて市場は健全に機能する。市場は個人の倫理の確立の上に初めて成り立つものなのです。そういう意味で市場は本来,極めて人間的なシステムであるはずで,非人間的な弱肉強食を是とするもの(何でもありの新自由主義的な自由競争)ではないのです。

 ちょっと話がそれましたが,とにかく本書の市場の議論には人間の顔が出てこないことに危惧を覚えるわけです。つまり,こういう経済学者の眼には普通の市民の姿は全く映っていないということです。だから連中の言うことは,いくら企業の利益を増やすことに役立っても,社会全体の幸福とか国民の福祉厚生とかには絶対に繋がらないわけで,それゆえ私は,いくら博士号を持っていようと権威があろうと彼らの言うことを絶対に信用しません。こういう経済学が大学で教えられたり政策の根拠になったりするのが,個人的には本当に残念ですし,99%の国民にとっても不幸なことだと思うんですね。一体何のための経済学なんだろうか,と根本的な疑問を感じてしまいます。よく言われることですが,経済とは元々「経世済民」を意味する言葉です。やはり,この「世を治め民を救う」ということが経済学の根本にないといけません。このことを,反面教師的にですが,本書を読んで改めて強く感じました。

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