岩井克人他『経済学は何をすべきか』(日本経済新聞出版社) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 「経済学に罪あり」というのが,本書で岩井克人さんが書いた第Ⅰ章のタイトルであり,また,世界経済危機に対する経済学の責任如何という問いに対しての結論でもあるわけですが,罪というより大罪,万死に値する,と言った方がよいでしょうね。これまで経済学を主導してきたマネタリズムや合理的期待形成理論など,新古典派経済学を精緻化した理論が,実は根本的な誤謬に基づいているということを,岩井さんは明快に説き明かしてくれています。マクロ経済学として実証的に正しくないだけでなく理論的にも矛盾している新古典派経済学が,なんで今だに学界の主流を占めているのか,不思議でならないんです,私なんかからすると。

 前にもここで何度か書きましたが,新古典派経済学の基本的な考え方は,市場さえ円滑に動いていれば,自由放任政策が自動的に資源配分を効率化し,経済の均衡と安定化をもたらすというものです。この考え方によれば,失業の増加とか経済の停滞とかが起これば,それは市場が円滑に動いていないからだということになります。で,その場合,市場の働きを阻害するものは,いわば「不純物」と捉えられています。例えば,労働組合の力によって賃金が下がりにくくなるとか(賃金の下方硬直性),さまざまな規制によって資本や労働の自由な移動が妨げられるとか(岩盤規制),政府や中央銀行によって恣意的なマクロ政策が行われるとか,そういったものが「不純物」にあたります。こういう「不純物」を取り除けば,経済は効率的に動き,また同時に安定するだろうと,主流の経済学は脳天気に考えてるんですね。諸悪の根源は,これら「不純物」にあるわけです。

 自由放任政策で市場にすべてをゆだねれば効率性は間違いなく増すでしょうけど,同時にそれは経済の不安定性の増加を伴うでしょう。貨幣賃金に下方硬直性があることや,国家間の資本移動に規制があることなどで資本主義経済の安定性が保たれているという面は確実にあります。また,政府や中央銀行によるマクロ政策が景気を安定化させるために行われ,一定の効果があることは誰しも認めるところです。つまり,資本主義経済の安定化には「不純物」が必要だということです。

 しかしながら,この「不純物」は経済を非効率にします。賃金の下方硬直性は労働の不完全雇用の可能性を生み出すし,資本移動に対する規制は資本の不完全充用の可能性を生み出します。すなわち,経済において安定性と効率性は二律背反の関係にあるということです。つまり安定性を高めようとすれば効率性が損なわれるし,効率性を追求すれば安定性が下がります。そのバランスをうまくとりながら,資本主義経済を管理運営していかなければならないはずです。それが経済学者のとるべき現実的な態度でしょう。


 効率性と安定性の二律背反は,資本主義の不都合な真実です。その不都合な真実を直視して経済政策をつくる。それが不均衡動学派の考え方です。(『経済学は何をすべきか』p.9)



 私はケインズもヴィクセルもろくに読んでませんし,それに岩井さんの本もちゃんと読んでいないのに,こんなことを言うのも変ですが,昔からケインズ派や不均衡動学派を支持しています。現実の経済を対象にして,何らかの理論や処方箋をつくろうとするならば,なんでこういう風に考えないのか不思議なくらいです。市場メカニズムさえ円滑に働けば効率性も安定性も同時に達成できると考える新古典派経済学は,「資本主義の不都合な真実」に眼を閉ざしているとしか思えないんです。新古典派の資本主義像は,自分たちに都合がいいように恣意的に資本主義を理想化したものにすぎません。

 20世紀最後の四半世紀に急激に進展し,今なお加速している経済のグローバル化の背後にも,もちろん新古典派経済学の思想があります。岩井さんが言うように,このグローバル化の動きこそ,新古典派経済学の「壮大な実験」でしたが,それはサブプライム危機や,それに続いて起こったリーマンショックで,その不安定性をさらけ出してしまいました。グローバル化の実験は失敗に終わったのです。それなのに,いまだにアメリカが主導して,世界全体に残っている市場の「不純物」を可能な限り取り除く方向(TPP!)に進んでいることには,私は危機感以外の何も覚えません。

 以上のような感じで今主流の経済学を批判していく岩井さんの議論にはとてもシンパシーを感じるし,とりわけ貨幣に関する考察は流石に秀逸で,貨幣それ自体が投機の対象になっているという指摘は資本主義経済の本質を射抜いています。


 資本主義経済では,すべてのモノが貨幣を媒介として交換されています。そして,そのなかで,私たちは誰もが貨幣を使って生きています。ところが,その貨幣が純粋の投機であるということは,金融市場のようにプロの投機家だけでなく,ふだんは投機とは全く関係ない生活をしていると思っているすべての人間――事実,多くの人間は投機家を本能的に嫌ってます――が,知らない間に,資本主義経済では投機家として生きているということを意味しているのです。プロの投機家だけでなく,すべての人間が必然的に投機家になってしまう――これが,我々が生きている資本主義経済の本質なのです。そして,まさにここに,資本主義の最も根源的な不安定性があるわけです。(上掲書p.33)



 このような貨幣経済がマクロの不均衡(総需要と総供給のギャップ)を必然化することについて,詳しくは本書を読んでもらいたいですが,以上のことからも資本主義が,新古典派経済学の夢想するような理想社会では決してないということがわかるでしょう。理想を持つことは大切なことですが,現実を直視せずに理想状態を頭の中だけで仮定して理論を組み立てることは,経済学者としてはあるまじき態度だと思います。


 絶望する理由も満足する理由もない中途半端な状態こそ我々の経済に与えられた通常の運命だ。(ケインズ『雇用,利子および貨幣の一般理論』)



 資本主義にはそもそも理想状態なんてないわけです。「中途半端な状態」しかないんです。まずそのことを認識することが大切なんじゃないでしょうか。その上で,先ほど言ったように効率性と安定性のバランスをうまくとりながら,人間の理性を総動員して,よりマシなセカンドベストのシステムを作り上げていくことしかないのです。20世紀には,資本主義に取って代わるとされた社会主義が人間の「自由」を抑圧する体制であることが実証されましたが,21世紀の初めには,新古典派経済学が生み出した自由放任主義,市場信仰も「自由」の敵であることがわかってきました。その認識はまだ十分には広がっていませんが,岩井さんなどのまともな経済学者の本を読むことで広がっていくでしょう。


 自由を守るためには,民主主義とともに資本主義を維持していかなければなりません。そして,その資本主義の健全な持続可能性のためには,新古典派経済学が生み出した自由放任主義思想と決別しなければなりません。
 自由を守るためには,自由放任主義から解放されなければならない。この逆説こそ,今回の経済危機の最大の教訓であるでしょう。

 (上掲書p78~p.70)


 以上のような岩井さんの議論は大変納得のいくもので,とてもよい本だと思ったのですが,ほかの人たちが書いた他の章がよくありません。経済学の罪をどれだけ自覚しているのか,疑問に感じる議論ばかりでした。というのも,新古典派経済学の枠組,すなわち一般均衡論に乗っかって議論しているからです。第Ⅰ章の岩井さんの議論が全く生かされておらず,一つの著作として一貫していないと思いました。

 いちいち各章について批判することはしませんが,特に最後の第Ⅳ章「経済学にイノベーションを」は酷かったという印象です。ここでは,著名なサミュエルソンの教科書『経済学』で確立された経済学の三原則に基づいて議論が行われています。すなわち,経済主体(消費者や企業)の合理的行動,社会の均衡という概念,効率性という尺度の3つです。これら三原則を導入できたお陰で,経済学は自然科学的な分析の手法を手に入れ,他の社会科学に比して飛躍的な発展を遂げることができたんだ,と。そして,行動経済学や神経経済学の誕生とか実験による検証とか個別具体的な事例への応用とか等々によって今後さらなる進化,イノベーションを遂げる可能性を秘めている,と。


 ・・・三原則によって,経済学は自然科学系のツールを使って問題の定式化を行うことが可能になりました。自然科学のツールがなければ,経済学は倫理や人間の認知の要素などが混在したままで問題を扱わざるを得ず,経済学の分析精度は今よりもある意味で著しく劣ることになっていたでしょう。社会科学に対する問題関心から発した経済学が自然科学的な色彩を帯びることができたのも,この三原則が確立できたことが大きかったわけです。
 合理性・均衡概念,そして効率性という三原則は,経済学が発展していくうえでパワフルな方法論を確立することになりました。

 (上掲書p.201~p.202)



 なんてお目出度いんだろうと思ってしまいます。「経済学に罪あり」という意識が無か希薄ですね。上の三原則すべてが今は問い直され,反省されているわけでしょ。岩井さんの第Ⅰ章も,それを問題提起していたわけですよ。それが台無しになってます。私なんかが思うのは,経済学に必要なのは,そんな方向でのイノベーションじゃなくて,むしろ地に足をつけたノーマライゼーションでしょ,ということです。合理的経済人も「不純物」も,均衡も不均衡も,効率性も非効率も,両方混じり合っているのが資本主義としてノーマルな状態なのであって,それを前提にして理論を構築しなきゃいけないんじゃないのか,そう私は言いたいわけです。それからさあ,合理性とか均衡とかを仮定することは,貨幣経済としての資本主義の本質,つまりは投機的な不安定性を否定することでもあるわけで,致命的な矛盾を最初から犯しているわけです。それは新自由主義のチャンピオン・フリードマンが想定するような,大昔の物々交換的な牧歌的市場を満足させるだけのものでしょ。現代から見れば全くアブノーマルな社会ですよ。一体何がノーマルなのか,何が現代的なのかをよく考える必要があります。「不純物」を不純物としてではなく,ノーマルな要素として取り入れる懐の深さが経済学者にも求められているんじゃないでしょうか。というのも主流派の経済学者には狭量な新自由主義者や国家主義者が多いですから。広い意味で「寛容」の問題がここにも横たわっていると思います。

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