大手マスコミの情報だけに接していると見落としてしまう側面が多くある。なので最近はなるべくいろいろな媒体で情報を得るようにしている。まぁ,とはいえ,それも限界があるのですが。。。
先日,震災から3年の特集を組んでいた『週刊金曜日』という雑誌を初めて買ったのだが,大新聞やテレビなどがあまり伝えない,実態に迫ったルポが多かった。最近は週刊誌の方が良質の情報多いのかな。
福島県で復興公営住宅の着工がなぜ遅れたかについて,ジャーナリスト・藍原寛子さんのレポート(「なぜ遅れた復興公営住宅」)は興味深かった。福島県で最初の復興公営住宅着工は震災から2年8ヶ月後(昨年の11月)。県は2015年10月の完成,同年度内の入居を目指すという。つまり4年半以上も仮設暮らしをさせられて,やっと次のステップである復興公営住宅に移れるという話である。
阪神・淡路大震災のときには,震災から約2ヶ月後に最初の災害公営住宅が着工を開始し,完成は約1年後。5年10ヶ月後にはすべての住宅が完成したという。それでも遅いと非難された。僕はこのころ小田実さんの話を聞きに行って,それまで日本では自然災害による私有財産の損失を政府が補償してきた歴史はないということを初めて知った。その後,小田さんをはじめ被災者たちの努力で「被災者生活再建支援法」が成立し,国が被災者の生活基盤の再建を援助できるようになったのだが,そういう小田さんらの運動や阪神・淡路の教訓が福島で全く生かされていないのを残念に思った。
藍原さんのレポートによれば,なんで復興公営住宅着工が遅れたかというと,災害復旧工事の急増に伴う建築資材や人件費の高騰で入札不調が続き,国も建設資金の交付金を引き上げるなどしたが,入札がうまく進まなかったという。一体,何のための復興か,誰のための復興かと思えてくる。結局,被災者が「復興バブル」の煽りを喰ったわけである。国も県も業者も福島を,利潤原理から公共事業の対象としか見ていないのがよくわかった。除染や中間貯蔵施設設置にしても,ハコモノ行政として結局,得をするのは政官と癒着したゼネコンや東電であり,切り捨てられるのは地元被災住民である。どれだけ被災者を苦しめれば気が済むんだろうか。そこには,被災者や弱者(高齢者,障害者,女性)の生活(=人生)の質や精神的苦痛を配慮する視点はない。だから,地元住民自らが生活再建・人権擁護のためのNPO法人を設立したり,地元自治体(浪江町)が代理人となって住民の精神的賠償についてADR(裁判外紛争解決手続き)申し立てをするなど,すべて被災者まかせになっているのが現状である。これが自助とか自立支援とかの中身なんだろうか。どんな悲惨な状況になっても自分のことは自分でやれ,っていうことらしい。
藍原さんの言葉を借りれば,今,福島は政官業一体の「アベノミクス型ショックドクトリン(=惨事便乗型資本主義)」の実験場にさせられている(「『被災者切り捨て』に町が集団申し立ても」)。言い換えれば,大企業・大型ハコモノ公共投資中心,弱者と地方切り捨てという,アベノミクス型積極財政の本性が福島において剥き出しになってきたといえる。ところで,ちょっと話は逸れるけども,高学歴エリート連中が旗振り役でやっている「福島第一観光地化計画」なるものも実は発想は同じで,観光地化するにつれて金も人も集まりインフラも整備されていくんだろうけど,それが復興なんですか,と問いたいのである。もっと被災者・避難者の支援活動に力を注いだ方がいいんじゃないか,と率直に思うのである。阪神・淡路のときにも問題になった仮設での高齢者の引きこもりや孤独死の問題のケアなど,行政のセーフティネットから取りこぼされた人たちの支援こそ,民間や市民運動家の出番だし,復興の鍵を握っていると思うのだが,残念ながら現状はそうはなっていないようである。たとえばPTSDの専門家や,ADRの知識・経験のある人,介護や福祉のプロなど,多様な人材が求められているはずであり,またそれができる人も多くいるはずなのだが,それがうまくマッチングできていない。観光地化運動などをするよりも,小田さんたちが地道に市民運動でやってきたように,被災者の生存権を保障し生活再建を支援する仕組みづくりをやっていくことこそ知識人や運動家の役割なんだと思うのだが,最近のエリートは,福島を大々的に宣伝し,観光地化して流行らせ,金や人を集めて復興に貢献したいらしい。広島や長崎だって,観光地化計画で今のような反核・反戦平和の象徴の地になったわけではないでしょう。よっぽど,被災や避難生活で苦しむ人たちを侮辱したいのかと思ってしまう。
ちょっと脱線してしまって恐縮である。とにかく,この『週刊金曜日』を読んで,震災から3年の福島がどういう現状なのかをいろいろ知り得たし,考えさせられることも多かった。そういう意味で,こういう週刊誌もすごく貴重な情報源だなと思った(今さらですが)。それにしても,この号の表紙(↓)は結構衝撃的なものだった。ピューリッツァー賞ものですな。光っているのは降り注いだ放射性物質だという。「たとえ肉眼では捕らえられずとも大地では輝いている。福島県浪江町希望の牧場2.20マイクロシーベルト。」
今日ぐらいしか,ゆっくりブログを書いている暇がないので,だらだら書き連ねていくが,ウクライナ問題でも大手マスコミの報道には偏りを感じる。昨日の中日新聞・社説も欧米寄りの論調で,それは各紙,同じなんだろう。ウクライナのクーデターを見て,チリの9.11クーデターを想起した人も少なくないだろうし(9.11については以前書いたので,ここでは割愛します),そういうアメリカなどの容喙に対する反作用として,ロシアによるクリミア編入を見ることもできるのではないかと思うのだが,そういう見方はマスコミでは御法度であろう。ウクライナ・クーデター政権の暴力性よりも,ロシアの軍事力行使の方を非難する向きが多いのも,マスコミの刷り込みが大きいように思う。この件に関して報道の偏向を感じた決定的な要因は,クリミア編入を表明したプーチンの演説をマスコミがちゃんと紹介しなかったこと。僕は知り合いの弁護士さんのブログでプーチンの演説全文を知ったのだが,これをなるべく先入観を排して読めば,ロシアの立場を愚直なまでに誠実に語った名演説だととれるのではないか。もちろんチェチェン弾圧などは棚に上げて何言ってんだという批判はあるだろうが(ちなみにチェチェン紛争のときの大統領はエリツィンね),ロシアなりの正当性,民族自決の大義を主張していて納得させられる部分も多い。国際問題にはいろんな見方が成立すると思うが,その判断材料となる情報,原資料を制限されては自立的な判断ができず,結局マスコミの言いなりになってしまうのがオチである。そういう意味で,今回のプーチン演説全文などネットの情報はホントに貴重だと思った。
台湾の学生デモにしても,日本のマスコミはあまり報道しなかったが,佐藤学氏の台湾速報を内田樹がツイートしているのを読んで,大変な事態になっていることを知った。もはや革命的な様相を呈している。そんな緊迫感はマスコミからは全く伝わってこなかった。SNSというのも報道として使えるのだなと感じた次第である。小保方論文の問題でも,ネットのブログで専門家が不正を指摘するなど,大学や研究所などの閉鎖的で官僚化した組織よりも,ネット民の方が厳しい自由な目でものを見て情報・意見を発しているのを感じる。
今やマスコミに国家や権力を監視する役割を期待するのは不可能である。であれば,市民一人一人がジャーナリストになりラッパーになって(?),ネットやSNS,出版などを通じて情報発信,権力批判をやっていけばいいんじゃないのと思う。何だか変な結論になってしまったが,自由な言論が民主主義の基盤だということが言いたいんだな,きっと。
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ECD/2011.6.11 新宿原発やめろデモ
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