いわゆる難病(特定疾患)の医療費助成制度が大きく変わることについて,多少マスコミでも取り上げられたことで,難病行政に対する国民の認識は僅かながら上がっただろうか。だとしたら,そのこと自体は大変有意義なことである。今回,社会保障の谷間に置かれている難病患者の立場や,難病に対する国の施策がいかなるものであるかが国民の間に知られる機会となって,多くの人の関心を惹き,議論が広がり深まれば,と願う。が,そんな隙を与えることなく,厚労省は難病対策委員会が11月中にまとめる提言を基に法案を作成し,来年の通常国会に提出,成立させる構えでいる。
今日は,この厚労省が成立させようとしている難病新法の一体何が根本的な問題なのかを考えたい(新制度案の詳しい内容は厚労省HPに掲載されている資料1別添を参照されたい)。患者当事者という立場から出発するけれども,最終的にはこの新制度の問題点をできるだけ客観的に押さえたいと思っている。
正直に白状するけれども,私自身,この医療費を公費負担してくれる特定疾患の制度がなかったら今日まで生きてこられなかったと思う。少なくとも,今のように寛解を保ち,ブログを書けるような状態でなかったことは間違いない。度重なる入院や手術もできなかったろうし,通院や投薬も今のように自由にできなかっただろう。私が発症した30年近く前は,医療費は全額助成されていた。15年前くらいから所得に応じた自己負担制度が導入され,患者の負担が重くなったが,それでもまだ良心的な負担額であった。そのため,特定疾患に含まれていない難病患者からは不公平だとの声も多く出て,さまざまな難病患者団体がこの特定疾患に指定してもらえるように国に働きかけた。その結果,特定疾患の対象疾患は増加していったのだが(30年位前は20くらいだったと思うが,その後増えて現在は56疾患),対象疾患・患者数の増加で当然,予算も年々拡大していった。この制度は国と都道府県で折半して助成する建前だが,国の予算が追いつかなくなった。そこで,今回の大幅改変になったわけである。
自己負担限度額が大きく引き上げられることで,現行の特定疾患制度を利用している患者にとっては大幅な負担増になることは,上の表を見れば一目瞭然である。しかも,この年収というのは,現行の生計中心者から世帯ベースに変えられた。また非課税世帯にも負担を課すとしているが,これは明らかに現在,助成を受けている人の約半分が非課税世帯だという現実を踏まえた上での変更である。その他,現行制度では負担のない重症患者にも負担を求めるなど,諸々細かな点で可能な限り患者の負担を増やそうという非情な「努力」が施されている。対象疾患を約300に拡大することや自己負担額を3割から2割に引き下げることなどが改善点と指摘されているが,実はこれも制度の目的を擬装するためのカムフラージュにすぎない。なぜなら,この新制度案の要諦は,たとえ対象疾患に含まれたとしても,助成を受けられるのは一部の患者,すなわち一定の条件を満たした重症患者に限られるという点にあるからである。つまり,その重症患者の負担額が上の表のようになるということであり,その他の難病患者にとっては重症化しない限り医療費助成制度は無縁なものになる。重症患者についてのはっきりした認定基準はわからないが,おそらく厳しいものになることが予想される。所得の低い人でも軽症と認定されれば,助成を受けられなくなるのである。要は,助成対象となる重症患者にも高い自己負担額を払わせるようにし,その他の難病患者は健常者と同じく一般の保険診療で治療させようとしているわけである。ここまで踏み込んで書いているマスコミはないが,新制度案の方向性というか狙いは間違いなくココ――自己負担3割の市場への難病患者の投棄!――にある。
これまで国の特定疾患に認定されることを要望してきた難病患者たちは,こんな新制度を望んでいたのではないはずである。従来の特定疾患の制度を拡大することを望んでしていたはずだ。制度を変えようとする,そのベクトルが逆向きなのである。すなわち,特定疾患制度を拡充するのではなく,一般の社会保険の方向にできる限り近づけようとしている。それは本来,反対なのであって,社会保障・生存権や福祉国家の理念からいって,他の社会保障制度が特定疾患の制度にできる限り近づけるよう努力すべきなのである。新制度が立法化されれば,難病患者の間の差異も,難病患者と一般の患者の違いも一切捨象され,すべて同じフラットな人間として,「平等」「合理的」な保険診療の中に放り込まれる。まさに典型的に新自由主義的な施策をここに見ることができる。生身の人間を扱う医療に単純な方法的個人主義を適用して上手く行くはずがない。それは必然的に医療から排除される人間を生みだし,最悪の場合その生存を奪うという残酷な結果を招くことは,ちょっと考えればわかるはずである。医療費を抑制するか払えないために十分な治療を受けられず,重症化していく患者が増えていくだろうし,そうして重症患者が増えれば助成費も増えて予算を圧迫するだろう。そういう悪循環になることは明らかであり,そうすると何のための新制度かわからなくなる。結局この新制度は,患者の生存を脅かす悪法としか考えられないのである。
1970年代に難病の研究事業という名目で始まった特定疾患の制度だが,これまで患者が要求してきた,この制度の立法化を,国は頑なに拒んできた。法制化してしまえば,廃止は難しいし,この医療費助成制度が他の社会保障制度の模範になっては困るという思惑があったに違いない。この事業を始めた当初は,国はこれほど疾患や患者が増加するとは予想していなかったのだろう。もともとは難病患者が声をあげてできた制度で,国は少数の希少疾患を対象に秘かに運営していこうと目論んでいたが,その目論見は残念ながら外れた。今回の立法化では,これからどんなに疾患や患者が増えても国の財政を脅かさないように愚かな配慮が十分になされている。だが,国の財政の代わりに犠牲にされるのは患者の生活と命である。こうした方向で現在進められている社会保障や医療保障の制度改革を根底で支えているのは,人間の生存よりも経済的自由・効率を優先するという転倒した価値観である。
生活保護費の切り下げや今回の難病助成制度の改悪に典型的に見られるように,今,日本の社会保障制度はかつてない大きな反動期に立たされている。それは生存権が保障される以前の社会,すなわち戦前への逆行である。特定秘密保護法や日本版NSCがつくられれば,国民の知る権利や報道の自由は著しく制限され,国家主義と軍事力がますます強化される。戦前への回帰の動きがあらゆる分野で連動して起こっている。前回の記事でも書いたが,危機感を持つ市民が声を上げなければ,この動きは止められない。声を上げるだけでは止められないかもしれないが,けれども声を上げることなしには,絶対に止まらない。さまざまな問題があるが,現在私の中で喫緊の課題は特定秘密保護法案と難病助成制度の改悪。これらが成立したら,個人が自由に生きられなくなるばかりでなく,国家によって命さえ奪われる事態になりかねない。大袈裟ではなく・・・。
とりあえず難病助成制度に関しては,ある同病者のブロガーさんに倣って,私も厚労省に要望を出した(厚生労働省HP「国民参加の場」)。私一人が声を上げたところで何の力にもならないと思うが,忙しい中でも,今の情勢を見ていると,とにかく何かをせずにはいられない。何もしなければ何も変わらないことは自明の原理である。
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