高橋和巳が「戦争論」の中で,広島の原爆慰霊塔の石碑に刻まれた「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」という言葉に噛みついているところは大変興味深かった。
高橋によれば「戦争は国家的規模の確信犯罪である」が,戦後日本では,「戦争をして戦争たらしめる確信性」は伏せられ見すごされ,「外交上の過失や民族的破廉恥罪」にすりかえられてしまった。その見すごし・すりかえの典型例が石碑の言葉である――
あやまち? ほんとうにそれは過失だったのか。また,いったい何があやまちなのか。アメリカが原爆を投下したことか。日本が中国を侵略したことか。中国からの撤兵をなしえず,米英欄にたいして宣戦を布告したことか。それとも客観的に,十五年戦争の発端となった満州事変の謀略であるか。・・・それらすべてが国家的確信犯罪でなくて過失だったというのか。
(中略)
・・・満州事変の宣戦布告なき軍事行動をはじめ,いっさいの謀議は国民に知らされることなく,国民はただその戦線の拡大をある種の興奮と不安とでむかえ続け,ついには避けえない運命のもとでみずからの生きかたと死にざまを考えようとしたのであってみれば,支配者の確信と被治者の運命愛とを同時ににらみつける複眼が必要である。・・・だがしかし,にもかかわらず今次の大戦がなんらの確信なく戦われたとするのは,歴史の歪曲であるばかりでなく,戦争とりわけ敗戦の悲惨と自然災害とを同一視し,さらに愚かしいことには,その死亡者の多寡によって交通事故と戦争との死亡者数を同一地平で比較しようとする誤謬すらうむ。たとえある文明国の一年間の交通事故の死亡者以下の犠牲ですむ局地戦争であっても,それはその殺戮の確信性においてまったく次元をことにする。交通事故にあって,誰が自分は何ものかのために自発的に死なねばならないなどと思うか。人間が確信犯たりうることを認める存在論的視野を没却した一般的ヒューマニズムは,事態をただ無意味に拡散させていくことができるだけなのだ。そして日本の戦後の傾向は,ざんねんながらそうだった。
(高橋和巳「戦争論」〔『孤立無援の思想』所収〕より)
確信性の,過失ないしは破廉恥へのすりかえ――ここに日本人の戦争観が孕む一つの問題性が抉り出されている。この隠蔽・すりかえは戦争に対する冷酷な認識を妨げ,平和運動のありうべき背骨を引き抜いたのであり,また,そのことによって戦後の日本では実は戦争責任論(天皇の責任論も含めて)はなされても戦争論そのものは停止状態のままに据え置かれてしまった。戦争そのものを正面から考察する思考態度が今なお日本人に求められている。そのことを,高橋和巳の戦争論から学び取らねばならないと思った次第である。今,アメリカがシリアに仕掛けようとしている戦争があやまち,過失などと見ることができようか。「限定的」との修辞に惑わされて,この軍事行動における国家的確信犯罪としての側面を見落としては決してならないだろう。
おなじ抑圧と窮乏に端を発しても,一揆と革命とはおなじでないように,同一地域および異地域の民族間の感情対立や不祥事と戦争とは,おなじではない。その二者を区別するものは,持続的に準備し,〈その情を知りながら〉あえて既存秩序を破壊しようとする確信性である。(高橋和巳「戦争論」より)
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