気が遠くなるほどの長編,野間宏の『青年の環』(全5巻)を読んでいる。あの纏わり付くような,ここまで書くかという細部の細部まで執拗に描写していく野間の文体が私は好きだ。おそらく野間作品の中で最もポピュラーである『真空地帯』は広く一般向けに書かれたものだから比較的読みやすかったが,この『青年の環』は野間のスタイルが全開した作品のように感じる。野間が20年以上かけて書き上げたこの作品を読破することなしに,野間宏を語るべきではなかった。これはタイトルにも表れてあるように,若い頃に読むべき小説であったと悔いる。人は若い時期に,かけがえのない文学経験をすべきであり,この『青年の環』はそれに十分価する作品であると思う。歳を取った今でも読んでいて貴重な経験をしていると感じるが,余計な知識や社会的地位を身につける前に読んでおく方が人生をより豊かなものにしてくれると思うのである。『青年の環』の地平から見れば今,人の絆とか希望とかいわれている事の内実が如何に薄っぺらで,かさぶたみたいなものかが分かるだろう。今のご時世に若い人がこんな小説を読むとは考えられないけれども。
実はまだ1巻の途中まで(約900ページ中500ページほど)しか読んでいないのだが,つい上のようなことを予感してしまう。「全体小説」なる語はサルトルが言い出しっぺらしいけれども,それは大雑把に言ってしまえば,ある国・ある地域の,ある特定の時代での社会全体のありようを描き出した小説ということになるだろうか。この『青年の環』の舞台は,第二次世界大戦勃発の年1939年の大阪。被差別部落の問題を軸にして戦争や愛,生死などの問題が絡んで話が進行している。今のところ,この小説の全体小説としての意味・中身はよく分からない。野間独自の,地を這い細を穿つように粘っこく書いていく手法が,さまざまな問題を抱え込む日本の社会構造全体をどう浮かび上がらせていくのか楽しみである。あるいは同じようなことだが,さまざまな登場人物とその人物をめぐる事件に対して,小説全体の状況・枠組がどう作用していくのかじっくり読んでいきたい。今後の楽しみは尽きないが,とは言え,これを読むのはかなり疲れる。とりあえず1巻を読んだら休もうと思う。そうしないと精神的にもたない。
とりあえず読書体験の途中報告。この小説についてはたぶん誰も興味がないと思うが,また気が向いたら感想でも書きたいと思う。
確かに彼(主人公=矢花正行)は芙美子に彼の生命をあたえなければならないと感じ,そうしつづけた。彼は彼女に生命をふきこんだ。すると彼女のしぼんでいた生命はたえず,ゆるやかにふくらみつづけ,はずみつづけた。そして彼はさらに彼女が自分の生命を彼女のうちに取りさって,それによって彼女の生命を生々とさせ,再び力にみちてくれることを願ったのである。しかし彼は,そうすることによってはじめて自分の生命を自由に解放することができたのである。
今年の春のはじめ,「いまにもあたしも雲雀(ひばり)のように飛べるようになるわ。」と芙美子は言ったが,もうそのときは彼女は彼にとっては,そのまま軽やかな雲雀だったかのようである。彼女はまだ冷たい風のふく青空の高みに舞い上がって行って,完全に彼の憧憬のあり場所になったようにも見えた。彼はこのような彼女に,「君は記憶の美しさ(記憶をときはなつ)をもたらしてくれた。僕のいままでは記憶の醜さ(記憶の収縮)ばかりだったのだが。」と書いたが,彼はこのときほんとうに自分が過去の陽子の像を自分のなかから追放することができたように感じたのである。彼女は彼のうちに過去とは別個の記憶をつくり出していた。彼女は彼に,冷静と深い情熱の秩序をもたらしたかのようだった。魂を洗うものは魂以外にはないかのようだった。そして記憶は魂にしかないかのようだった。彼は魂の解放によって解放されたと思い込もうとしているようだった。
(野間宏『青年の環(一)』第2部第1章「投網」四より)
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