紫陽花 | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


紫 陽 花   野間宏


恋人よ! その身新しい身なり,
病癒えて青い野に立つ美しい身体の弾み,
その辺り歓びは草々の上にしばし溜り,
広い地には柔らかい色がはや降りている,
恋人よ! 夕の野に光り収める一群の紫陽花の花。

恋人よ! 思い出は優しい口ずりの囁き吹いて
かすかなる疲れも涼しい,
怨みなし,怒りなし,夕の息吹き,
ただ恋する炎こぼれるごとく,
紫陽花の色痛むも快し。

恋人よ! 夕にささげた色彩の巧みが恋の深みに雨(ふ)り
君が眼はわがために紫陽花の花を咲かせた,
瞳残して黄昏れて行く視線(まなざし)の花,
いまは再び生きて青草の間に色づく,
昼はとおく明日の空に澄み……

恋人よ! 吾が恋は甦った生命(いのち)を敷く
野の露に甘ければよし
君を載せて地(つち)はいささか美しく酔うたさま
遙かな目覚めも開いて
恋人よ! この地(つち)の瞳の紫陽花の花。
(以下,略)


 なにも野間には,現実の状況を打ち破ろうとする政治的志向を抱えた抵抗詩(用語法が誤っているかも)ばかりあるわけではない。上のような生命力溢れる青春の詩も多い。甘く豊かな抒情の世界が打ちたてられているではないか。ただ,そのほとんどが戦前のものであり,私も以前は戦後派知識人としての言論活動にしか関心がなく,こんな抒情詩などには見向きもしなかったけれども・・・。

 過剰なまでに比喩を駆使しながらも,言葉そのものが花になり,言葉において花の世界そのものが生きている。言葉としての花と自然としての花は根源においては同一である。野間においては,このようなものとして詩はあり,そして小説はある。

 野間自身に語らせれば,次のようなことになるのだろう。―――「存在を根源の世界に還元することに依ってのみ(そしてそれは純粋感情に依ってのみ)之を言葉に変形することが可能である。そこに言葉の発生がある。・・・『暗い絵』を書いたときにも,私は言葉をこのように考え,このように生みだしていたのである。

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