立憲主義の危機~国家権力が憲法改正を主導していいのか~ | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 昨日,憲法記念日の中日新聞(東京新聞)は立憲主義や9条の危機という現状認識がよく表れていて大変共感を持ったが,公務員たる内閣総理大臣が憲法改正を公言し喧伝するのは,そもそも憲法99条違反ではないかという論点は見られなかった。しかも憲法の中身ではなく,その改正発議要件から変更しようなどということを大臣がアジテートすること自体,立憲主義からの逸脱であり,大変危険な状況に差しかかっていると言わざるを得ない。

 私が実際に目を通したのは中日新聞とTBSのNEWS23だけであるが,ネット上の情報によると,読売・産経は96条の改正に賛成であり,日経は96条の改定に対しては微妙な立場だが改憲の立場だそうだ。朝日は今年は改憲反対の論陣を張っているそうだが,NHKは逆に改憲プロパガンダ一色で,96条の改定も満更ではない様子。地方紙まではよく目配りできていないが,京都新聞は1面に憲法の「け」の字もなかったそうだが,2面で「立憲主義の根幹壊して良いのか」という社説が載っていた模様。神戸新聞には「立憲主義を危うくする96条改正」という社説があった。

 神戸新聞が主張するような96条改定の危険性に対する認識は共有したい思う。と同時に,国会議員の立場ではなく,憲法擁護義務を負う公務員としての大臣・首相が96条改定を先導するような政治行動を違憲と見る視点も立憲主義に不可欠だと思うのだ。立憲主義の立場からすれば本来,憲法改正は国民から発案・提起されるべきものである。その観点からして,憲法改正原案の提出権は内閣ではなく,国民の代表たる国会議員にある。だから,安倍首相も国会議員あるいは自民党の党首として憲法改正を掲げるのは構わないけれども,首相の立場から率先してそれを言うのは御門違いというか,憲法違反の対象であり,少なくとも政治問題化されてしかるべきである。そうならないのは,日本の立憲主義の未熟さを表していると言えようか。一票の格差であれだけ「違憲,違憲」と大騒ぎしていた連中も,この件については何も言わない。今,国家権力が当たり前の如く憲法改正を主導していることに,私はもの凄い違和感を抱くのである。本来,憲法改正の担い手は国民ではないのか。が,残念ながら,その点について(管見の限りは)どのメディアも触れていなかった。

 なお,今年の2月に投稿した,憲法99条の意義について書いた記事はまだ有効期限を失っていないように感じたので,下に再掲させていただく。

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憲法99条の意義~今なぜ大逆事件なのか~(2013年2月12日付)


 原発事故の責任を取るべく政権政党に返り咲いたはずの安倍自民党は今,専らデフレ脱却に向けて大胆な金融緩和と財政出動をお題目として唱えて国民の期待を煽り,安倍政権の支持を拡大して夏の参議院選で過半数を取ることだけを当面の目標に置いている。それまでは経済問題に集中して憲法改正は前面には出てこないだろうが,安倍首相の最大の眼目がそこにあることは言うを俟たない。参院選で自民党が圧勝すれば憲法改正もいよいよ現実的なものになってくるから,改憲であれ護憲であれ,とにかく現行憲法に対する自分の認識,立ち位置をしっかりと定めておく必要がある。

 安倍政権が誕生して以来(その前から),改憲論議が喧しくなりつつあるが,それは主として,自民党が昨年4月に発表した「日本国憲法改正草案」をめぐって展開されている。そこには天皇の元首化,人権条項の削除,国防軍の設置,緊急事態条項の創設など,さまざまな問題があるが,私が今日ここで問題にしたいのは,自民党改正草案102条1項にある「全て国民は,この憲法を尊重しなければならない」という規定である。

 現行憲法では,国民は憲法を守る義務を負わない。憲法尊重擁護義務を負っているのは誰なのか。現行憲法99条が次のように規定している。すなわち,


 天皇又は摂政及び国務大臣,国会議員,裁判官その他の公務員は,この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


 「公務員の憲法尊重擁護義務」といわれる規定である。「国民」が主語にふくまれていない点に重大な意味がある。

 国民は憲法尊重擁護義務は負わない。だが,政府(総理大臣および国務大臣),国会議員,公務員など国家権力を行使する為政者は,それを負う。このことは,憲法が国家権力を制限していることを意味する。つまり憲法によって国家権力を縛り,好き勝手なことをさせないようにしているわけである。国家権力側が憲法を守らず好き勝手なことをすれば,国民の自由や権利が侵害されかねない。逆に国家権力によって憲法が守られている限りは,国民の人権や生活は脅かされことはない。だから,国家権力には憲法を守らせる必要がある。そういう近代立憲主義の原理を宣言したのが99条なのである。

 じゃあ,国民は何をしなければならないか。日本国憲法前文の第四段落(最終段落)では「日本国民は,国家の名誉にかけ,全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」とあり,また第12条では「この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によって,これを保持しなければならない」と規定されている。つまり国民は,「全力」「不断の努力」をもって憲法を為政者に守らせ,憲法が保障する人権を守る運動を続けていかなければならない。国民は国家権力が憲法をちゃんと尊重擁護しているかをチェックする努力を怠ってはならないのだ。そのチェックを外したとき,絶大な権力を持つ国家は暴走する。このことは歴史が物語っているだろう。国家権力は国民を何年も逮捕監禁する権限があるし,死刑という形で国民の命を奪うことだって許されている。大義名分を語って(大東亜共栄圏!大量破壊兵器!)いつでも戦争を始めることができる。

 国民が守るべきは憲法ではなく,自らの自由や権利なのである。憲法は国民にではなく,権力側に向けられているのである。

 また,憲法97条では「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は,人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって,これらの権利は、過去幾多の試練に耐え,現在及び将来の国民に対し,侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」という規定もある。ここに言われているように,憲法が国民に保障している人権とは人類長年の自由獲得の戦い・運動の成果なのであって,その努力は現在および将来にわたって永久に続けられねばならないのである。

 自民党改正草案では,このような立憲主義憲法の考え方を否定して(というよりは理解せずに),上に書いたように102条で国民に憲法尊重擁護義務を負わせてしまっている。そして97条はバッサリ削除だ。それは実は大日本帝国憲法(明治憲法)と相似するものである。明治憲法の「憲法発布勅語(上諭)」では,最後に「現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ」とあるように,国民に憲法遵守義務を負わせているのである。立憲主義憲法の否定という点で,自民党改正草案は明治憲法への先祖返りにほかならない。なお,20年ほど前に発表された読売新聞の憲法改正試案も同じく,99条の「公務員の憲法尊重擁護義務」を削除して,前文に「国民の憲法尊重擁護義務」を規定している。

 ところで,公務員に憲法尊重擁護義務があるとすれば,そもそも安倍首相が内閣総理大臣の立場で憲法改正を主張することは,その義務に反する行為である。国民の代表である国会議員としてではなく,大臣の立場で改憲を公言することは憲法違反だと,私は思っている。そのことが全く問題にならないのは,立憲主義がまだ日本に根づいていないことの表れではなかろうか。国家(天皇)が国民(臣民)に与える国家主義憲法の亡霊がいまだに日本人に棲みついているように感じる。憲法改正案(原案)の提出権は内閣ではなく国会議員にある(と私は解釈している)ことからも,大臣が改憲を容認したりするような発言をすることは憲法尊重擁護義務に抵触すると思うのである。しかも,内閣総理大臣が現憲法の定める改正手続の要件(96条)を変更・緩和した上で,改憲しようなどと画策することは,明らかに憲法違反であり,もはや国家権力が暴走する一歩手前まで来ている。

 小生はいわゆる社共的な護憲派ではないと自認する。もし憲法が時代に合わなくなってくれば変えればいいと考えている。現憲法で国民に憲法尊重擁護義務がないということは,逆に言えば,国民は憲法改正について自由に発言できるということであり,そのことは表現の自由が保障するものでもある。今の改憲論議を見ていると,自民党の改正案を軸に改憲派と護憲派の間で賛否両論が交わされるだけで,もっとさまざまな改正案が出てきて議論されてもいいと思う。国の根本に関わる問題であるから多事争論がなされてしかるべきだ。私の勉強不足かもしれないが,左派は護憲を言うだけで,民間からすぐれた憲法改正案が出てきたのを見たことがない。私は,今,現行憲法を変える必要はないと考えるが,未来永劫この憲法でいいかと言えば,そうとも断言できないし,国民の自由や権利をより高度に保障できる原理や憲法案が出てくれば,賛同することがあるやもしれぬ。だが,今のところは現憲法に勝るものはお目にかかったことはないから,結果的に護憲の立場である。

 今日書いた立憲主義について,東京新聞の論説副主幹が「それは憲法の一つの考え方にすぎず,憲法の全てではない」と発言していたが,確かにそうではあるけれども憲法はその国の歴史や実情に合ったものでなければならない。国民に憲法遵守義務を負わせ,権力への歯止めを欠いた明治憲法の下で,天皇制警察国家が何をしたかは今さら言うまでもない。先日観た「襤褸の旗」という映画の中で,田中正造が何度も「天皇」とか「憲法」と言って,それに忠実であろうとする姿勢を見せていたが,たとえ近代憲法といえども「権力への懐疑」を忘れた憲法では,国民の自由も思想も生活もすべて権力によって押し潰される。権力者(天皇)への反逆を口にしただけで死刑にもされるのだ(幸徳秋水!)。だから,権力への不断の監視を定義する立憲主義憲法は日本国の憲法として相応しいといえる。


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