ここのところ,当ブログへのアクセス数が400~500あたりに落ち着いてきて,何となく安堵の胸をなでおろす気分である。だが,ページ別アクセス数を見ると,いまだに最新記事ではなく,10/25付の記事へのアクセスが一番多い。確かに幸徳秋水や永井荷風などが登場する記事にアクセスが集まるはずもなく,それはむしろウェルカムなのだが,ネット経由で取り憑かれた橋下徹の怨霊からはいち早く逃れたい心境だ。自分のブログなのに何だか居心地悪く,好き勝手に書くことが憚られる空気を感じ続けていたが,そろそろこちらのペースで書きたいことを書きたいように,気ままに綴っていきたい。できればもっと自分の内面もプライバシーも晒け出し,も少し人間味のあるブログにしていきたいと思っている。このブログを荷風の『断腸亭』を範としてやり始めて3年。今頃になって,そのことを初めて実感として感じる次第である。
先日も触れたように中上健次は「二十代の履歴書」を書いたが,私にはまだ様々な思いが複雑に交錯していて,「二十代の履歴書」が書けない。
「履歴書」にかけない二十代を過ごした後,三十代,私は「まっとうに」生きようと思った。それは中上の言うように,世間様向けのまっとうさというより,昇って沈むお天道様へのまっとうさ,というものに近かった。世間様向けのまっとうさであれば,もっと違う道を進んだだろうと思う。実際まっとうに生きた三十代は,自らの精神の在処と生活の手段を探し当てるための難関ルートであった。
二十代に中断を含みながら続けてきた研究を仕上げて,学位論文を提出するのが三十代,最初の難関だったが,苦労して何とか学位を取得した。学位といっても課程博士だから大したレベルではない。勝手に師と仰ぐ内田(義彦)さんのアダム・スミス研究の方法を真似して,ジェイムズ・ミルを中心にイギリスの哲学的急進主義(philosophic radicals)を扱った特殊研究にすぎず,特にミルの『英領インド史』は日本では未踏領域ではあったけれども,所詮はオールド・クラシックな研究であった。内容的なことはともかく,さしあたり世話になった指導教授の学問的な恩に報いることができたし,20~30代にかけての研究の過程は自らの学問・思想的ルーツ・アイデンティティーを形成したものとして自らの生(生活・人生)にとっても重要な意味を持った。同時に私の政治的・イデオロギー的な立場もほぼできあがったように思う。
今のネット論題上ではネトサヨに分類されるのかもしれないが,そんなレッテルはあまり意味がない。高校時代マルクスボーイとして出発した私は,大学時代に,マルクス学の中でもいわゆる市民社会派なる学者さんたちから多大な影響を受けた。そこで原マルクスを知り,市民社会の概念とコミュニズムの本当の意味を教わった。指導教授は講座派の流れを汲むマル経学者で学史家でもあったが,ゼミのテキストはもっぱらスミスの『国富論』であったし,「スミスが分からないとマルクスも分からんよ」「マルクスも実はスミスの手のひらの中で遊ばれているんだよな」とよく仰っていた。だから正統派マルクス主義からは右寄りだと非難されるし,もちろん,いわゆる近代経済学の側からはマル経はすべてひっくるめて共産党の立場と同一視される。また,杉本栄一の名著『近代経済学の解明』や都留重人,ジョン・ロビンソン,伊東光晴さん等の影響から私は近経の中でもケインズやシュンペーターには親近感を抱いたし,新古典派経済学,一般均衡論の祖であるワルラスやマーシャルもその理論的実体は,経済学の教科書で説明される一般均衡論とは程遠いものだと感じた一方,一般均衡論一本槍のマネタリズム的な経済学には強い反感を持った。そういう意味ではケンブリッジ学派,ケインジアン左派に近いのかもしれないが,極左マルクス派から見れば極右に映るだろう。どこに視点をもってくるかで政治的立場の定義も変わってくるから,はっきり自らの立場を特定するのが難しい。私はアダム・スミスの思想にシンパシーを抱くが,スミスの政治的立場を措定するのは大変厄介な問題で,もちろん当時のウィッグでもトーリーでもないが,ましてや急進派ジャコバンでもなく,一言で片付けられるものではない。内田さんは戦後民主主義という問題意識からかなりラディカルなスミス像を描き出したが,それが歴史的に見てスミスの実像であったかというと疑問があるし,もう少し穏健的でグラジュアルな改革者的立場であったのではないかとも思う。私が取り上げた哲学的急進主義は比較的わかりやすく,ウィッグやトーリーとははっきりと違う,知識人・中産階級を中心にした改革勢力,今の言葉で言えば第三勢力であった。「哲学的」とはもちろん狭い意味の哲学ではなく,「功利主義を核とした思想・道徳哲学に基づいた政治改革運動」という意味合いが込められているのだろう。その主張内容は確かに選挙権の拡張を中心としたラディカルなものだったが,普通選挙の要求までには至らず現実的なブルジョア的な改革論だった。以上を無理やり綜合して私の立場を表現するならば,「哲学的市民コミュニズム」(諸個人の自立と連帯に基づいた中間層を主体とする改革)となるだろうか。それじゃ全く意味が分からんよ!ごもっとも。誰しも政治的立場をワンフレーズで単純化・レッテル貼りすることは,大きな誤解を招く危険を伴うから,よく深く吟味してその人物の立ち位置を見極める必要があるということ。
ところで,私が院生の頃から文部省の指導により各大学で博士の増加が図られ,課程博士は年々増え続けていたから,博士取得者だからといってもすぐに専任教員のポストがあるわけでもなく,それで二,三,東北地方の国立大学に応募したものの採用には至らなかった。埼玉にある某私立大学の副手なる口を紹介されたが,アルバイトみたいな仕事であるからキャンセルした。
この就職問題と並行して,二十代初めに発症した病気の悪化という問題も抱えていた。私が発症した頃は病気自体があまり知られていなかったために二十代には治療らしい治療をしてこず,私生活でも暴飲暴食,不摂生を続けていたことが,三十代初めの再燃に繋がったのだろう。論文を作成していた頃からかなり状態が悪く絶食生活を3年位続けていたのだが,論文を出して審査が終わった頃には腸は限界に達していた。すなわち小腸と直腸の間に婁孔(交通)ができ,また小腸は針が一本通るか通らないかまでに狭窄していた。手術しか道はなかった。
大きな手術は二回目だったが,論文を出して自己の存在証明をし人生に一つの区切りをつけた後でもあったので,万一手術が上手くいかなかったとしても(その可能性は数パーセントしかなかったと思うが),それまでの人生に悔いや心残りのような思いはなかった。
手術は上手くいって,食事ができるまでに回復したが,その手術後からひどい下痢が1日に何回も起こるようになった。外科手術・医学的見地からは問題ないらしいが,日常生活には少なからず支障があった。それは今も続いている。
手術後,学会発表をやり,引き続き就職口を探していたが,やはり専任ポストは見つからず,そのころ偶々,神奈川県のある学習塾を引き継いでやってくれないかという話が舞い込み,一軒家付きでテナント料も安く好条件であったので引き受けることにした。そのころ懇意にしていた女性と二人三脚で経営を始め,順調に進んだが,1年後,意見の対立から彼女は塾から離れた。以後,三十代後半は学習塾経営で生活を立てていくことになる。経済的にも比較的安定し,病気の方も多少狭窄が再発したものの,経管栄養や食事制限などの治療によって寛解状態を保つことができた。
三十代,実家には一度も帰らなかった。十代,二十代の過去と血縁関係の問い直しをすることなく単に知識の増殖を重ねることによって,三十代に賭けたまっとうさは如何ともしがたい屈折をはらみ,精神の内部にはいくつもの深い空洞が穿たれた。
おぞましいのは,生きていることだ。ぼくは死ぬ理由もないし,もしたとえあったとしても死ぬ勇気はない。ぼくは臆病者だ。・・・死ぬということのほんとうの理由がわからないまま三十歳になり,四十歳になり,そして老衰をはじめる。ぼくはいまのいまを書きとめておきたい。(中上「犯罪者永山則夫からの報告」)
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