ルーツと差別~上原善弘「『橋下徹出自報道』のどこが問題なのか」を読んで~ | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 昨日の記事の主旨は,中上健次やTOKONA-Xを顕著な例として挙げ,それに私自身も含めて,「血」=ルーツが人格や思想,作品の形成に何らかの影響を及ぼしているということであった。以前,週刊朝日の橋下記事について書いたのも,一つにはそのことを提起したいということがあった。橋下氏は路地を出自としてもちながら,想像を絶する労苦と努力で貧困家庭から這い上がってきた。その辺の世襲議員やボンボン政治家とはわけが違うのである。その生い立ちこそが,高学歴→弁護士→政治家という彼の成り上がりの原動力であり,彼の人格を形成してきた。そして,それは彼の政治哲学(あるとすれば)や政策にも関係性をもっていると思われる。ルーツを問題にするのは何も橋下氏を差別したり蹴落としたりするためではなく,日本の政治を左右しかねない一人の政治家の人物研究として,そのルーツを探る調査取材は必要だと思うからである。そういう意味で朝日の謝罪・連載中止はジャーナリズムのあり方として残念だったし,今後,そういう問題をメディア等で扱うこと自体が禁忌とされるのではないかという悲観的な予感を抱いた。結局,ルーツと人格について本質的な議論は行われず,部落差別を助長するか否か,人権侵害かどうかという表層の論点だけが一部で論争されたにすぎなかった。

 差別問題についての私の考え方はすでにここで何度も書いたから繰り返さないが,所詮,私は部落出身ではない路地外の者であって,部落差別の本当のところはわかっていない。路地のことは路地の者にしかわからない部分があるし,しかも路地についての報道や情報は大手メディアでは「自主規制」されているから,ますます路地の外にいる者の理解を妨げている。

 先日,『新潮45』(11月号)に載った,ノンフィクション作家・上原善弘氏の「『橋下徹出自報道』のどこが問題なのか」という論考記事を読んだ。差別問題について私の考えと合致したものであるが,やはり私が書くより,部落出身者であり取材を多く重ねてきている彼の書いたものの方が説得力に富むし,重みもあるので,ここに引用しておきたい。


 まずはどんな形でも良いから路地をメディアにのせること,それがもし差別を助長させたとしても,過去の糾弾闘争などで萎縮し,無意識下にもぐった差別意識をあぶりださなくてはならない。問題があるのなら,表面に出たものを批判していけば良い。言論なら言論で応酬し合うべきだし,糾弾会を開くなら公開で,広く一般に呼びかけたものでなければならない。
 大事なのは,路地が陰で噂される存在であり続けることではなく,表立っていつでも語られる存在になるということだ。そうして初めて,路地は解放されていく。
 路地は,水平社発足の頃から,こうした「世に出るべきか,隠れるべきか」という自己矛盾に苛まれてきた。なぜなら路地自体が,日本人の中にある「矛盾した存在」であるからである。
(p.87)


 上で私は路地外の者という言い方を使って,路地出身者と区別したが,日本人をそういう風に路地と路地外とに分けること自体が矛盾をはらんでいるのであって,日本人ならば誰しも路地で生まれ育つ可能性はあったのであり,路地はすべての日本人に関わっている。日本人が生み出した路地は今,日本人すべてが背負っていかなければいけない責任として重くのしかかっている。「路地自体が,日本人の中にある『矛盾した存在』である」という上原氏の言葉は重い。


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