私といたしましてはたたかいのさ中にありましてもきびしい精進をつづけてまいりました。
句は私の生命でございます。
句集『春雷』の「跋」にこう書いたのは,以前もここで何度か紹介した女流俳人・鈴木しづ子。これに倣って,私も書きたいと思う。
私といたしましてはたたかいのさ中にありましてもきびしい精進をつづけてまいりました。
ブログは私の生命でございます。
とまでは言えないが,
ブログは私の生活の一部でございます。
となら言えるかもしれぬ。私も今「たたかいのさ中」にあって,それでもブログに向かう自分がいる。ここは,今の生活になくてはならない大切な場所。理由はいくつかあるが,一つは「対話」とか「連帯感」かなと思う。すなわち,私の場合,コメントも受け付けていないが,読者と一定の距離感を保ちつつ読む読まれの反復の中で,見えないけれど確かなつながりを感じ,相互の承認・認め合い・尊敬みたいな関係性が成立しているような気がする。たまにいただく直接のメッセージでは,本音に近いものを感じたりもする。(なお,先日は「好きなブロガー」としてブログに紹介していたいた方もいて,恐縮至極,感謝の至りであった。)
こういう私はとても情に流されやすく,騙されやすいタイプではあるが,それだけセンシティブで,他人の内面も文章や言葉から自分のことのように敏感に感じとってしまうこと少なくない。それ故,自分のブログも,エモーショナルなものに傾きがちになるので,文章スタイルも論文調にして,できるだけ客観分析を中心にするよう心がけてはいる。
だが,私と同じく「たたかいのさ中」にある人を知ると,何とか頑張ってくれと応援したくなるし,逆に自分自身,どこか心強く感じて頑張ろうという気にさせられる。有名人がメディアを通じて言う「頑張ろう」という言葉は空虚さしか感じないが,いわゆる一般の人が必死に生きている姿や強い信念を,ネットの片隅で綴っているのを読むと,本物の勇気をもらった気分になる。
病気とのたたかいもあれば,権力とのたたかいもあるし,世間とのたたかいもあり,起業に向けたたたかいもある。たたかいはさまざまだが,「たたかいのさ中」にある人間は,何か連帯感のようなものでつながっているように感じる。別に一緒に何かとたたかっているわけではないが,いわゆる同志という感覚がブログを通じて芽生えてくる。「たたかう君の歌を たたかわない奴らが笑うだろう」と誰かが歌っていたが,同時に言えるのは「たたかう君の歌を たたかってる奴らは決して笑わないだろう」ということ。そのことを確認し合えるのなら,その相手を友と呼んでもよいのではなかろうか。
メッセージの返信やブログへのコメントなど,ほとんどできていないが,それは私独特の含羞の念と,多事多端に由来するものなので,しばらくは寛容を請う。
ポケットに手を突っ込めば丸まったハンカチがある きみと話したい
(加藤治郎歌集『しんきろう』より)
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