司法のための司法 | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 国民の生命・自由・財産を守るための,いわば最後の砦としての役割をしているのが,司法という国家権力である。それは健全に機能しているか。残念ながら,完全に機能を喪失していると言わざるを得ないことは,ここでも何度か触れた通りである。

 先日の東電女性社員殺人事件のように,近年は再審の開始が徐々に認められるようにはなってきたが,死刑判決が確定した事件では,何故かまだ少ない。過去に4件のみという(いずれも再審無罪)。しかも最近では1986年以来,一度も開始決定が出ていない。先月は名張毒ぶどう酒事件(死刑確定事件)の再審請求が棄却された。死刑という途轍もなく重い決定を下した裁判所の面目を潰すことはできないという,エリート法曹のプライドが働いているのか。しかし事は,国家権力が国民の命を絶つかどうかの判断である。慎重には慎重を期すというのが筋だろう。だから再審制度があり,「疑わしきは被告人の利益に」という原則がある。この原則が再審にも適用されるとした白鳥決定は風化してしまったのか。再審だけではない。通常の裁判でも白鳥決定の原則とは遊離した適用がなされていると聞く。「疑わしきはすべて有罪に」という検察官に有利な原則が確立されているようにも見える。いわば国家権力が国家権力を守るという自家撞着した姿を,今の日本の司法はさらしているわけだ。昨日書いたように本来,国家は国民の安全を第一のアジェンダとすべき権力機構である。今や司法も国民の生命を守るという国家のアジェンダからは大きく乖離し,反対に国民を死刑台に送る本物のモンスターとなり果てている。

 なぜ死刑確定事件に再審が通らないのか。―――ここに日本の国家の本質が隠されているように感じるのだ。すなわち,国民の負託による国民の安全のための国家ではなくて,権力による権力のための権力!分かりやすく言えば,司法官権がでっち上げた事件に対し,裁判所が検察の圧力に屈して有罪(死刑)判決を下す。偽の正義感と出世欲に溢れた裁判官は,その方が社会秩序が保たれると無理やり信じ込み,自らの出世と地位確立に繋げていく。(なお,東電女性社員殺人事件で逆転有罪判決を下した裁判長が,狭山事件の再審請求を棄却した裁判官と同じであったことは偶然ではない。)「疑わしきは検察の利益に」という隠された原則は,その辺から生まれて確立したんだろう。死刑判決で再審なんて以ての外だ,司法の権力も権威も丸つぶれじゃないか,という転倒した論理と心理である。もはや国民の生命とか人権とかは二の次である。

 それが決して誇張でないことは,名張毒ぶどう酒事件の再審棄却理由で裁判所が被告人側に無罪の挙証責任を負わせたこと,その死刑囚がいまだに医療刑務所においても手錠を架せられていることに端的に表れている。もはや日本の司法が国民の味方でないことは明らかである。さて,裁判員裁判は,「疑わしきは検察の利益に」という倒錯した原則を「疑わしきは被告人の利益に」という原則に正すための刺激剤になるのか。根本的解決には程遠い。


*********************************
   ※パソコン用ペタこちら↓↓↓
ペタしてね
   ※携帯用ペタこちら↓↓↓
ペタしてね


読者登録してね