今日の午前中が納期の原稿がまだ少し残っているのだが,どうしても書きたいことがあり,ブログに向かった。1時間以内で書く予定なので,かなり乱暴な言い回しや悪文,誤字など多くなることをご了承いただきたい。
3月11日の政府主催の追悼式典で,岩手県・宮城県・福島県の遺族代表がそれぞれの思いを言葉として述べた。当日はテレビで地震や津波の映像を垂れ流しするのが耐えられなかったので,当日の様子は翌日の新聞で読んで知った。その遺族の言葉は朝日新聞のデジタル版で全文読んだ。それぞれ家族を亡くした者の思いが,読む者の胸に強く迫った。テレビではなく活字であったため,遺族の現在の気持ちをできる限り想像しながら,何度も繰り返し読むことができた。その意味では,テレビなどでカット・編集されたものを見せられるよりは,遺族の気持ちを理解するにはよかったのかなと思った。しかしながら,読んだ後,ふと不思議に思ったのが福島県遺族代表の女子中学生の言葉である。遺族の気持ちを理解したいとの一心で繰り返し読んでいて,どこの県の代表かは気にしていなかったのだが,福島県の遺族代表の言葉に「原発」や「放射能」の言葉が一つも見当たらないのだ。何か作為的なものを感じた。これは政府主催の式典である。政府による「検閲」であることは容易に想像できた。しかも,福島県の代表に中学生を当てたことも何らかの政治的意図を感じないではいられなかった。
野田首相の式辞に政治的意図が込められ,また天皇陛下の言葉がマスコミによって編集されるようなことは,始めからわかっていた。だから,そんなには驚かない。だが,若くして父親を亡くした中学生を担ぎ出して政治利用したとしたなら,断じて許せない。中学生が書いた元の作文には「原発」か「放射能」の語は入っていたのではないか。ボクも長年,中学生や高校生を指導してきたから,親や第三者が生徒の作文に手を入れたときは,すぐわかる。この中学生の言葉の最後には,今は神奈川県の中学校に通っているとあった。その理由に関する部分が抜け落ちている。彼女の出身は相馬市であり,住民の3割以上が他県に避難しているほど放射能の影響が大きい地域である。原発事故のことが彼女の心の中に少しも影を落としていないとは到底考えられない。
震災から1年。復興への決意を新たにしたこの時に,国は未来を担う子どもの表現する権利を平気で侵し,子どもの内面をみだりに踏みにじった。いわゆる公人が政治的に利用されるのはやむを得ない部分もあるが,一市民,しかもまだ若い中学生を政治工作に巻き込んだことは,国民として極めて残念であり,一人の人間として悔しくてならない。ここまで日本の政治家や官僚の道徳的堕落が極まっていたとは…やり場のない怒りを抑えきれずに,今このブログを書き殴っている。
あくまで推測に基づいた議論であるから,この点についてはこれ以上はやめにする。しかし,震災1年を迎えるにあたっての政府やマスコミの対応を見て感じたのは,地震と津波という自然災害としての「震災」に,人災としての原発事故を含み隠して解消してしまおうという意図である。震災と原発事故ははっきり分けて捉えなければならない。全くの別物だ。誰かが言っていたが,津波は事故のきっかけに過ぎないのである。事故の本質とは関係ない。原発事故は昨日の韓国のようにhuman errorでも起きるし,犯罪やテロのターゲットにもなりうる。今回はたまたま津波という自然災害によって引き起こされたに過ぎないのだ。
3.11の大々的なイベントや報道を見ていると,「震災」という言葉の中に原発事故のことを暗に包み込んで表現している。「震災から1年」とは何度となく聞いたが,「原発事故から1年」とはあまり聞かなかっただろう。いわば「言葉による事故隠し」といったことが行われている。「冷温停止」とは言葉の遊びであって,現実には原発事故は今もって進行中であり,危機はまだ始まったばかりである。これから孫の代,ひ孫の代になっても放射能は消えるものではない。それを,震災1年を機に抹消してしまおうというのが,政府や官僚,電力会社の胸算用である。だから,震災1年に合わせたかのように,原発再稼働が一気に舵を切った。そして,それは「復興」という言葉とリンクしているようにも見える。だが,再稼働が事故収束の証であり,復興の鍵を握るかのようなプロパガンダに惑わされてはいけない。
原発事故ほど「復興」という言葉と縁遠いものはない。原発事故は「復旧」もあり得ない。あるのは「破滅」だけである。だから,その「破滅」を最小限なものに食い止めるために,国民的な最大限の努力と言論が必要なのだ。にもかかわらず,震災1年を境に原発事故がなかったかのような風潮が世間に広がることを恐れる。似たようなことが,戦後の日本であったではないか。すなわち,戦争がなかったかのように,その責任を曖昧なままにして「復興」と経済成長に突っ走ってきた戦後日本。奇しくも3.11の前日,3月10日は「東京大空襲」の日である。1945年3月9日から続いた空襲は,東京の3分の1以上を焼失させ,10万人以上の犠牲者を出したと言われる。だが,その甚大な被害は戦後まで,国民には詳しくは知らされなかった。その後も他の都市で大規模な空襲があり,多くの市民が犠牲となった。国の情報操作によって,空襲の被害は人々の記憶からデリートされ,唯一死者の記憶の中にだけ残った。それと同じような状況が今の日本にできあがりつつあるように思う。
東海地方出身だから言うわけではないが,あと一つ,今の日本とシンクロさせて見てしまうのが,太平洋戦争の末期に起こった東南海地震のことである。1944年12月7日,マグニチュード7.9の巨大地震が東海地方を襲い,死者1200人以上を出した。だが,この大震災の実態も国の徹底した情報管理によって戦後10年以上隠匿され続けた。この地震から数日後、米軍のB29爆撃機が被災地の半田市に「地震の次は何をお見舞いしましょうか」というビラを撒き,すぐに大規模な空襲を行って軍用機工場を壊滅させたという。被災地に追い打ちをかけるようなことをよくするな,と思ったものだが,戦争というものは人間をそういう酷いことのできる無感情な状態に追い込むのだろう。この地震と空襲の事実が秘匿されたのは東海地域の軍需工場が壊滅的な打撃を受けたことを隠すためだったとも言われるが,いずれにしても,この地震と空襲の記憶は戦後しばらくは埋もれたままとなり,継承されることがなかったのである。
私たちはこの歴史を繰り返してはならないと思う。原発事故の責任を曖昧なままにして「復興」と原発再稼働に突っ走ってよいだろうか。空襲も原発事故も人為であり人災である。天災とセットにして,その責任を自然の猛威に解消してしまってはならない。そうすれば,また同じことを繰り返すだろう。権力による原発事故の記憶の抹消工作には徹底して抵抗せねばならない。事故の記憶は永遠に継承されなければならない。―――この教訓を,ボクは福島県の遺族代表として立った中学生の無言の言葉として聞く。
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