美に生きるか,理に生きるか | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 1週間ほど前,NHK教育テレビで,福沢諭吉と中江兆民の足跡を辿る番組(「日本人は何を考えてきたのか」)をやっていて,後半を少し観たのだが,中江兆民に評価が偏っていたようで,あまり面白い内容ではなかった。いわゆる民主主義に対する表向きの評価だけでは,福沢は理解できず,やはり福沢の文明観をもっとふくらませて捉えないと真の福沢像は見えてこないし,また中江の民主主義思想にしても,福沢の文明観との対比においてこそ,その意義もより鮮明になると思うのだが,そういう視点はほとんど見られなかった。ここでの〈福沢と中江〉という枠組は―――〈アダム・スミスとルソー〉という,かつて内田義彦が設定した思想枠組と同様に―――日本の近代化の特質を明らかにする上で極めて有効であると思われるだけに残念だった。


 とはいえ,このブログは,そんな詰まらん理屈っぽいことを書く場所ではない。その番組でちょっと気に留まったのが,中江兆民が喉頭癌で余命一年半であることを告げられて書いた『一年有半』という随筆的批評である。それは,日本の政治・経済から哲学,宗教,教育等にわたり痛烈かつ啓蒙的な批判を展開したものとして知られるが,その思想・内容をここでどうこう言いたいのではない。

 今日言いたいのは,ちょうど同時期,余命少ないことを悟っていた正岡子規が,先日このブログでも触れた『仰臥漫録』を書いていて,その中で,死を前にした中江の生き方を批判していることである。

 『仰臥漫録』は子規のいわば私的な病床日記であり,特に公にすることを意図して書かれたものではないだけに,却って,死を控えた子規の赤裸々で虚飾ない心情が綴られているように見える。先日も書いたが,そこでは妹・律への痛烈な罵倒・叱責が印象に残るが,その他,目につくのは毎日の食事や便通の記録,そこに時折はさまれる自ら描いた絵・スケッチなどである。

 では,そこで子規は中江の生き方をどう批判しているか。簡単に言えば子規は,中江が余命一年半と宣告されたことについてのショックを綴っていることを馬鹿げた理屈だと言って批判するのである。子規にとって,死ぬことは特別なことにあらず,それに理屈をつけるのはまさしく屁理屈だと映ったに違いない。

 子規は『仰臥漫録』でこう言っている。


 兆民居士の「一年有半」といふ書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候。居士は咽喉に穴一つあき候由、われらは腹、背中、臀ともいはず蜂の巣の如く穴あき申候。一年有半の期限も大概は似より候ことと可申候。しかしながら居士はまだといふ事少しも分らず、それだけわれらに劣り可申候。が分ればあきらめつき可申、が楽み出来分れば可申候。杏を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれどもどこかに一点のがひそみ居候。焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理屈か候べき。


 同じく死の前に立たされながら,兆民は「理」によってもはや生をあきらめている。だが,子規は「美」によって生を楽しんでいる。死を前にしても生を平然と「楽しむ」とは。そんな子規の境地には,そう簡単に達せられるものではない。このブログで随分前にも書いたのだが,子規は禅宗の悟りというものを,死を恐れず平気で死ねることではなく,死を前にしても,いかなる時にも平気で,いつも通り淡々と生きることだという考えに達していた。

 そのことを兆民居士は分かっていないと子規は言いたいのだろう。だから俺の方がスゴイんだと,無邪気にも子規は息巻いているのであるが,ここでは誰しもが子規に軍配を上げるのではなかろうか。いかなる時でも「美」を楽しむ,平然と生きる,というこの子規の悟りは,永遠に尊い。

 なお,子規はこれを書いた年(死の前年)の自分の誕生日に,(虚子に借りた借金で)料理屋から会席膳を取り寄せ,母と妹にふるまった。母と妹の日頃の看護の労に報いたいと思ったのである。そして,「蓋シ亦余ノ誕生日ノ祝ヒヲサメナルベシ」と,いつも通り日記をしたためたのだった。


☆「仰臥漫録」に描かれた子規の誕生日の様子(明治34年)
ブロッギン・エッセイ~自由への散策~
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  (正岡子規を偲ぶ「仰臥漫録」展より)

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