先日,オウム真理教をめぐる事件の裁判がすべて終わった,とマスコミが大きく報じた。16年にもわたった裁判でオウムの何が明らかになったか,また何が明らかにされなかったか。今や関心は,麻原ら死刑囚の死刑執行に移っているようにも見えるが,どこかオウムの本質が見逃されているような気がしてならない。
ジャーナリストの江川昭子は「まだ逃亡犯がおり,彼らが捕まってその裁判の判決が出るまではオウム事件は終わっていない」というようなことをテレビのインタビューで応えていた。作家の佐木隆三は「麻原彰晃が死刑にされるまでは,私は死んでも死にきれない」と悔しさを滲ませながら言っていた。また,地下鉄サリン事件の被害者を妹に持つ兄は「私たちが死ぬまで事件は終わらないでしょう」と淡々と述べていた。
多くの関係者に,事件を風化させてはならないという共通の強い思いを感じる。しかし,ボクには風化はおろか,今なお私たちはオウムの呪縛から解き放たれてはいないように思われるのだ。新世紀になった今ではあまり語られることもなくなったオウムに関わる重大問題。すなわち終末論。サリン事件は彼らにとってまさしくこの世の終わりの最終戦争であった。私たちはその破滅的な終末思想から逃れられているか。
オウム教団が発足し膨張・肥大化していったのは1980年代後半から90年代。時代はまさに世紀末であり,また紀元後,二番目の千年が終わりを告げようとしていた千年紀末でもあった。実際,日本ではバブルがはじけ,あらゆるモノ・価値が崩壊しつつあるという終末感や厭世観みたいな空気が充ち満ちていた。それが現実化したのが1995年。初頭には阪神大震災が起こり,そしてサリン事件が起こった。サリン事件の日,ボクは東京・新宿の小劇場にいたが,一歩間違えば事件に巻き込まれていた可能性も十分にありえた。まさにこの世の終わり,「末法の世」「終末」という感を強く抱いた。
ところで,オウムは仏教の流れを汲んだ宗派(教義・信仰としてはとりわけチベット仏教)であって,キリスト教とは関係がないけれども,いわゆる終末論として代表的な文書は,新約聖書の最後に置かれた「ヨハネの黙示録」である。今ではよく知られているように,その「ヨハネの黙示録」にはチェルノブイリという語が出てくる。チェルノブイリという語はウクライナ語で「苦艾(にがよもぎ)」を指す。いうまでもなくチェルノブイリとは,1986年(オウムの発足にほぼ重なる)に原発事故を起こした,あの地の地名でもある。「黙示録」第八章にはこうある。(なお,「黙示録」の訳は便宜上,ネット上から分かりやすいものを拾ってきた)
10 第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。
11 この星の名は「苦艾」(チェルノブイリ)と言い、水の三分の一が「苦艾」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。
「にがよもぎ」の星が墜ちてきて,水が苦くなり,そして多くの人が死んだ!これはまるでチェルノブイリの原発事故を暗示していないか!―――「ヨハネの黙示録」に書かれていた終末意識は,20世紀末,第二の千年紀末をも覆っていたのか。そう思わないではいられない預言である。さらに,ここに出てくる水は,今の日本を苦しめ続けている放射能汚染水をも預言しているようにも見える。
「ヨハネの黙示録」第九章にはこうある。
1 第五の御使が、ラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開くかぎが与えられた。
2 そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。
3 その煙の中から、いなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が、彼らに与えられた。
4 彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。
5 彼らは、人間を殺すことはしないで、五か月のあいだ苦しめることだけが許された。彼らの与える苦痛は、人がさそりにさされる時のような苦痛であった。
6 その時には、人々は死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行くのである。
穿った見方をするならば,「底知れぬ所」とは原発を,その穴から立ちのぼる「煙」は,原発事故により放出された放射能を幻視していると見ることもできよう。そして,「死を求めても与えられず、死にたいと願っても、死は逃げて行く」として翻弄されている人々は,被曝の恐怖に怯える今の日本の人々を象徴しているのではないだろうか。
ボク自身はキリスト教徒でもなく,また特に聖書に詳しいわけではないが,ともあれキリスト教をベースにした西洋文明(近代文明)の根底にはこのような終末論がある。誤解を恐れず俗っぽい言い方をすれば,先覚者たちは人間のエゴや傲慢がいずれ世の破滅をもたらすことを洞見し,くり返し警告してきたにもかかわらず,人々は耳を貸さなかったがために破滅することになるだろう,ということではなかろうか。日本でも何度か末法思想が現れ浄土信仰が流行したことがあったが,キリスト教的な悲観的・呪詛的・破局的な終末論とは様相が違った。キリスト教の伝統のない日本では,真にリアリティを持った終末論は存在しなかったが,ある意味,それに最も近かったのが,皮肉にも仏教を標榜していたオウムであったように思う。
現代文明の永遠に終わらない時間の中で弄ばれている現代人に対して,破局的な終末論を突きつけたオウムの問いに,まだ私たちは答えられていない。その意味でオウム事件は終わっていないし,今も日本人は限りなく破滅的な終末にいる。
