昨日の中日新聞・朝刊の文化面でのエッセイで,哲学者の鷲田清一さんが,公務員の務めとして,公共全体の幸福に目配りをし,それに自らの能力を尽くすことの必要性を述べていたのだが,その最後に,寺山修司が風俗嬢の言葉として紹介していたものを引いて,大変味わい深いと締めくくっていた。
ひとりで幸福になろうとしても,それは無理よ。
確かに味わい深い言葉ではある。だが寺山がここで言う「幸福」とは,一般に言われる「幸せ」というよりは,人との「出会い」を意味しており,その意味で「仕合わせ」「巡り合わせ」なのである。残念ながら,公務員が出会いや偶然,回り合わせとかに期待しながら仕事をしてもらっては困る。
「出会い」はいつも,晴れがましいものだとは限らない。ときには,握手のかわりに銃口をさし出さねばならぬときもある。だからこそ,「出会い」への期待は,はかなく新鮮なのだ。
出会いがどんなものかはあらかじめわからない。晴れがましいものもあれば残酷なものもある。いつも,いい巡り合わせが来るとは限らない。だから期待もし,またその期待がはかなく幻滅に変わることも多々ある。結局,その期待が「幸福」ということなのかもしれぬ。
出会いに期待する心とは,いわば幸福をさがす心のことなのだ。
(以上の引用は,すべて寺山修司『幸福論』より)
寺山は,別の書でこう言っている。
幸福をさがしてみるのは
かなしいことかもしれません
(寺山修司『愛さないの愛せないの』より)
ここまで来ると,上に引いた風俗嬢の言葉を,公僕としての公務員の務めと結びつけるのは,やや無理があるようだとわかる。その言葉は,出会いと仕合わせを探し続ける孤独な女性の哀しみの吐露だったのかもしれない。
