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「人間の証明のテーマ」ジョー山中
ここ2週間ほどは原稿の仕事の追い込みで,テレビや新聞のニュースもろくに見ていなっかった僕が,ジョー山中の死を知ったのは,アメブロ読者仲間のsweepさんの記事だった。なんで「人間の証明」の動画をYouTubeでアップしているのだろう,と思ったら,その主題歌を歌っていた彼の死を追悼してのものだった。
映画「人間の証明」は,当時大変話題となった作品だ。森村誠一の原作を読んでから観た僕からすると,暴力事件で服役し出所したばかりの松田優作が棟居刑事を演じていたことや,ロックバンド「クールス」の岩城滉一が金持ちのボンボン役を演じていたり,大女優の岡田茉莉子が息子を殺す八杉恭子役をやっていたことなどに,奇妙な違和感を覚えながらも,母親に殺害される混血青年役のジョー山中だけは,演技にぎこちなさを見せながらもどこか迫真のリアリティがあり,また彼が哀切に,ソウルフルに歌いあげるテーマ曲も,映画の冒頭で死んでしまう混血青年の魂が乗り移ったかのようで,多くの人の心を動かしたに違いない。
実際の家族関係において,7人兄弟のうちの彼だけがハ-フで,父親がジャマイカ出身の兵士だと知ったのは後年のことだったという。小学生のころに最愛の母を亡くし,その後は養護施設で育てられた。だから,少年時代を過ごした養護施設のクリスマス会や卒園式には毎年,足を運んだという。
主題歌の歌詞は,西条八十の詩「ぼくの帽子」を彼が英訳したものであると思われているようだが,クレジットには,英訳:角川春樹,英詞:ジョー山中とある。おそらく西条八十の原詩を角川春樹が英訳し,ジョー山中が,原詩にはない次の一節を付け加えたことから,そういう形になったのだろう。すなわち,
the life you gave me (母さん,あなたにあたえられた人生)
おそらくは自らの人生に重ね合わせて創られたであろう,この歌詞を歌うところが言いようもなく切ない。
小説や映画自体には,さして共感も感動もしなかった記憶がある。こんなのが人間の証明なのか。人間のエゴイズムや暴力,SEX,弱い者いじめ(特に米兵に日本人がボコボコにされ,小便をかけられるるシーンなど)を描いているだけではないか。こんなのがヒューマンなのか,と。『路傍の石』を理想の人間像としていた思春期の僕は,皮膚感覚としてそう感じていたように思う。特に映画では,その肝心なテーマの部分がぼやけていて,主題歌とエンディングの風景だけが印象に残る作品だった。
戦後の混乱が生んだ悲劇と言えばそれまでだが,結局,人間のエゴイズムの犠牲になるのは,弱い人間だ。生まれてきた子に罪はない。生まれてこなくてよかった命などあるはずがない。それを抹消しようとする人間のエゴと,にもかかわらず人間の根っこにある,子を思いやる気持ち(とりわけ母の情)。その二つの間でもがき苦しむ人間を描いた,確かに森村作品の傑作だと思う。だが,少年期の僕が直感したように今でも思う,証明不十分!人間とはそういうアンビバレントな存在だということなら,誰もがわかっている陳腐な証明だ。この小説や,森村の他の証明作品にしても,どうしても中途半端という印象が拭えない。が,しかし,僕が森村作品に対する見方を変えたのが,旧日本軍の731部隊の実態を暴こうとした『悪魔の飽食』である。さまざま事実関係に問題はあるにしても,満州での人体実験など731部隊の存在を世間に知らしめた意義は大きい。小説家であるだけに証言・証拠による綿密な実証という面が弱く,想像力を働かせすぎてフィクションになっている点は否めないが,しかし,ある意味,これこそ人間の悪魔の証明だと思った。ちなみに僕は,かつて旧陸軍登戸研究所の近くに住んでいたこともあって,好奇心でその実態に関する書籍や文献を漁ったが,風船爆弾や偽札の製造などのほかは,731部隊がおこなったとされる人体実験や細菌戦との関連など,まだ十分明らかにされていない。
ジョー山中から,話が思わぬ方向に逸れてしまいそうだ。話を『人間の証明』に戻そう。この小説と映画のヒットで,西条八十の「ぼくの帽子」は再び脚光を浴び,多くの共感を喚び起こした。僕も当時は暗誦できるくらいに何度も読んでいたような気がする。多くの人が知っている詩だと思うので,最初と最後だけ紹介する。
――母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?
ええ、夏碓井から霧積へ行くみちで、
渓谷へ落としたあの麦稈帽子ですよ。
――母さん、あれは好きな帽子でしたよ。
僕はあのとき、ずいぶんくやしかった。
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
(中略)
――母さん、そして、きっと今頃は、――今夜あたりは、
あの渓間に、静かに雪が降りつもっているでせう。
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y・Sという頭叉字を
埋めるように、静かに、寂しく――。
八十は,喪失感を表現するのに抜群の才能があったといわれる。森村誠一が言うように,人は誰しも母から買ってもらった「麦藁帽子」を持っている。この詩では,麦藁帽子は母そのものになっており,その母にはもう二度とめぐり会えない。「母さん」の語の前にある「――」には,母を失ったことに対する寂しさや悲しさや空虚感が,内面的な深さを伴って込められているような気がしてならない。そして,その喪失感は,伊太利麦の帽子が風に吹き飛ばされていった霧積の渓谷よりも,遙かにずっと,ずっと深い。ジョー山中があの一節を加えた気持ちが今,わかるような気がする。母にあたえられた,ただ一つの命=人生だから大切にしようという,純粋で深遠な気持ち。――――「母さん,あなたにあたえられた人生」
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(補遺)
以上のように書きながら,こんなことを言うと,これまで書いたことが台無しになってしまいそうだが,個人的には「ぼくの帽子」という詩は昔からそんなに好きな詩ではなかった。一般受けのする普遍的な詩で,そこそこ母への喪失感もうまく表現されているが,あまりにもセンチで,喪失感も中途半端なような気がして,インパクトに欠ける。八十の詩では,地獄に堕ちる喪失感というか不気味さや残酷さを描きながら,どことなく映像的で幻想的な「トミノの地獄」が最高峰だと思う。実のところ,よく意味はわからない。なぜトミノは地獄に堕ちなければならないのか。なぜ姉がトミノを鞭でたたくのか。鶯や羊は何のメタファーなのか。そもそもトミノって誰?疑問は絶えない。いや,この種の童謡的詩歌は具体的な意味をあまり深く詮索しない方がいいのかもしれない。ただ,詩に鮮やかに浮かび上がる赤と暗闇の色彩的対照。そして,響き渡る鞭の音と鶯の鳴き声。美の中の残酷。暗闇の中の光。この詩だけで「人間の証明」を超える映像と音響が包含されているように感じる。なお,寺山修司が映画『田園に死す』で披露した「惜春鳥」という歌の歌詞が,この詩にインスピレーションを受けたものであることはあまり知られていない。さすがはコラージュの天才。下に「トミノの地獄」前文と,寺山の「惜春鳥」を掲げておく。
トミノの地獄(西條八十詩集「砂金」より)
姉は血を吐く、妹(いもと)は火吐く、
可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く。
ひとり地獄に落ちゆくトミノ、
地獄くらやみ花も無き。
鞭(むち)で叩くはトミノの姉か、
鞭の朱総(しゅぶさ)が気にかかる。
叩けや叩きやれ叩かずとても、
無間(むげん)地獄はひとつみち。
暗い地獄へ案内(あない)をたのむ、
金の羊に、鶯に。
皮の嚢(ふくろ)にやいくらほど入れよ、
無間地獄の旅支度。
春が来て候(そろ)林に谿(たに)に、
暗い地獄谷七曲り。
籠にや鶯、車にや羊、
可愛いトミノの眼にや涙。
啼けよ、鶯、林の雨に
妹恋しと声かぎり。
啼けば反響(こだま)が地獄にひびき、
狐牡丹の花がさく。
地獄七山七谿めぐる、
可愛いトミノのひとり旅。
地獄ござらばもて来てたもれ、
針の御山(おやま)の留針(とめばり)を。
赤い留針だてにはささぬ、
可愛いトミノのめじるしに。
惜春鳥(寺山修司脚本『田園に死す』より)
姉が血を吐く 妹が火吐く
謎の暗闇 壜を吐く
壜の中身の 三日月青く
指で触れば 身も細る
一人地獄を さまようあなた
戸籍謄本ぬすまれて
血よりも赤き 花ふりながら
人の恨みを めじるしに
影をなくした 天文学は
まっくらくらの 家なき子
銀の羊と うぐいす連れ
あたしゃ死ぬまで あとつける