昨日,震災後に発表された詩歌には人災に対する怒りが欠落しているという主旨のブログをアップした後,ちょうどその日の新聞夕刊に〈大震災と詩〉という特集記事が掲載されていた。それは,先日,東京都の日本近代文学館で開かれた「言葉を信じる 春」という企画で,14人の詩人が作品を朗読したときの模様を紹介した記事だった。そこには,昨日のブログでも取り上げた和合亮一氏をはじめ,稲葉真弓氏,井坂洋子氏らへの取材記事も載っていて,彼らが大震災後にどんな思いで言葉を紡いだのかが語られており,興味深かった。
和合氏が震災後に発表した詩の多くは即興らしく,即興詩は今この現在に対抗する一つの方法だという和合氏の言が載っていた。和合氏は,この日の詩をこう結んだという。
僕は言葉を失う
だけど僕は言葉を信じる
明けない夜はない
だけど僕は言葉を信じる
明けない夜はない
また,小説家としても活躍する稲葉氏は,「散文の説明では間に合わない。凝縮された強い言葉で通じるものを書くには,詩しかなかった」と語る。
この二人ともが,こういう震災後の今だからこそ,詩の言葉がもつ力というものを強く信じようとしているのが,断片的な記事からも感じ取れた。そういう中で,僕が印象的だったのは,井坂氏の次のような発言だ。「震災が起きたから言葉にしないといけない,という隠然たる強制力があったら,それはまずい。何か本質をつかんだと思ったときにしか言葉は出ない。」
そして最後に,月刊誌『現代詩手帖』の編集長の話が載っていた。「詩人たちは今,安易な言葉を発することができない状況に置かれている。言葉が厳しく問われている。」
この把握に異論はない。今,詩人や言論人が置かれている状況はその通りだと思う。だから,井坂氏が言うように,安易な言葉をもって類型的な表現をしても「文学としては無効」だろう。よって井坂氏のように言葉にしないという選択も"あり"だ。
ここで,僕には一つの疑念が浮かぶ。震災後,〈人と人とのつながり〉〈死と裏腹に生があること〉〈人智を超えた存在や運命のこと〉といった,古くから詩のテーマとされてきたことが浮き彫りになったというが,現代詩は,そういった抽象的で,祈りにも似たテーマを必ずしも持たねばならないのだろうか。より具体的な次元で,社会的・政治的な言辞やメッセージを含んだ詩があってもよいのではないか。確かに現代詩の世界においては,そういった思想性の強い詩は忌み嫌われる傾向にあるようだが,ここでもそういう見えない強制力が働いているとしたら,それも問題である。
現代詩がこの大災害を,悲哀の言葉や運命論でしか表現できていないとしたら,それは為政者にとって,とりわけ原発事故の責任者にとって都合のよい状況を作り出していることにならないか。昨日も和合氏の詩に寄せて書いたことだが,この震災を天災と人災の区別なしに,すべてを自然や神という,人智の及ばないものに帰して描くことに,僕は強い懸念を抱いている。震災を天の怒りや宿命としてただ情感的に嘆くばかりでなく,もっと今の政治や経済のあり方に対して,詩だからできる根源的で容赦のない糾弾や抗議があってもよいのではないか。僕が社会科学や経済学の出身だから言うわけではない。原発推進か反対かとか,ハト派かタカ派かとかいう立場・イデオロギーを問題にしているのではない。そんなものとは関係なく,今,原発は人類や自然環境の未来を揺るがすような事故に拡大しようとしているのだ。それは,言うまでもなく人が犯した過ち,すなわち人災なのだ。それを問い糾す姿勢と,生活と故郷を奪われたことに対してそこはかとなく込み上げてくる怒りが,今回の朗読会でも欠落しているように見えて,そこに僕は大いなる違和感を抱くのだ。
先頃は,与謝野肇経済財政担当相が,福島第一原発事故は「神様の仕業としか説明できない」と述べ,東京電力に全責任を負わせるのは不当との考えを示したという。そして,今回の大津波に関しても,「知恵をはるかに超える津波」は「神様の仕業」だと説明した。(原発事故 与謝野氏「神様の仕業」と発言)
現代詩は,為政者がこういう発言をしやすい状況や雰囲気を醸成してはいないか。だとしたら,責任は重い。そういう意味で,安易な言葉は発せられてはならないし,安易に人智を超えたもの(神や運命)に託す詩法をとることも許されない。地震・津波を神もしくは天の怒りとするのはよしとしても,原発事故をそれと一緒くたにして天災とし,被害者の哀しみや苦しみを詠むのは本質を取り違えている。原発設計士の後藤氏も言っていたように,地震や津波は原発事故の単なる一つのきっかけに過ぎない。原発事故というものは,雷や台風など自然災害だけでなく,人為的ミスでも,さまざまなことをきっかけに起こりうるものなのだ。事故は決して人智を超えたものではない。
先ほど,井坂氏の言葉が印象に残ったと言ったのは,そういう意味で「何か本質をつかんだと思ったときにしか」言葉は出ないし,発してはいけないという趣旨のことを述べていたからだ。本質をつかみ一篇の詩を生むまでに,「四千の日と夜」が必要な場合もある。以前も引用した田村隆一だ。彼ほどの詩人でも戦争の本質,20世紀文明の本質を捉え一つの詩篇に結実するのに,11年の歳月を要した。彼の詩句は,3・11を体験した今,黙示録のように響く。
記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像カと四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した
一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなけれぱならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であリ、
われわれはその道を行かなければならない
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像カと四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した
一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなけれぱならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であリ、
われわれはその道を行かなければならない
(「四千の日と夜」より)
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今日で五月も終わり。今年も「五月の鷹」になれなかった僕が,いくら怒っても,誰の共感も得られないだろうが,たとえ「二月のかもめ」となっても,この怒りを鳴き続けようと思う。

