「格納容器に穴が開いてるわけですから,そこから常に放射能が出続けている,今!格納容器が損傷しているということは,原子炉の中の放射能が,われわれの住んでいるこの空間とつながっているということを意味している。これは危機的な状態なんですよ!」
「格納容器が破れたら,ふさぎたいんですけれども,ふさげないんです。」
「コントロールが極めて難しい,あるいはコントロールが不可能と言ってもいい技術なんです,原子力というのは!」
2011.05.17「やじうまテレビ」にて~後藤政志氏(元東芝・原子力プラント設計技術者)が福島原発の現状を語る
柏崎刈羽や女川,浜岡原発などの設計を手がけた後藤氏の舌鋒は鋭い。特に後半10分以降,原子炉と私たちの生活空間が一心同体だとの指摘はショッキングだ。原子力というものは一旦コントロールを失ったら,人間の手ではもはや制御不可能となる,それが原子力技術の特性だ,と力説する後藤氏の発言には,東電も政府も耳を傾けた方がよい。にもかかわらず,東電や政府の対応は常に後手を踏み,しかも情報の隠蔽・操作により,福島原発の状況をますます悪くし,被害を拡大させている。危機感の欠如がそうさせているとしか言いようがない。
話が変わるが,昨日の新聞に一つ目に留まった記事があった。戦後詩の代表的詩人,田村隆一の全集(全6巻,河出書房新社)が,没後13年の今年,完結したというニュースである。彼の詩に対する僕のイメージは,戦争体験や都市の荒廃を背景にしたペシミスティックなものだった。それは今も変わらないが,大震災後の今,改めて読むと,原発という文明を存分に享受してきた現代人に対する死者からの告発のような印象を受ける。原子力は「愛も死もない」文明だ。私たちを「病める者」にする。もはや私たちは死んでも「地に休むことはできない。立ったままだ。
田村の代表作「立棺」からの一節である。原子力文明の本質を言い当てているようで,恐い。
わたしの屍体を地に寝かすな
おまえたちの死は
地に休むことができない
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ
(略)
わたしはおまえたちの文明を知っている
わたしは愛も死もないおまえたちの文明を知つている
どの家へ行つてみても
おまえたちは家族とともにいたためしがない
父の一滴の涙も
母の子を産む痛ましい歓びも そして心の問題さえも
おまえたちの家から追い出されて
おまえたちのように病める者になるのだ
われわれには愛がない
われわれには病める者の愛だけしかない

