海の声を聴け | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 もう一昨日のことになるが,宮崎県の口蹄疫復興イベントの一環として,某元有名サッカー選手が主催するサッカーのチャリティーマッチが行われたのを,たまたまテレビで観た。そのチャリティーイベントに対して,いま全国に出没しているクマ,いや伊達直人に対してと同じく,特に異論があるわけではないが,その元サッカー選手には,つまらないことではあるが,一つだけ底知れぬ憤りを感じたことがあった。そのことをまた思い出した。

 彼が現役を引退することを発表したときのブログのことだ。それはこういうタイトルが付けられていた。――――「人生とは旅であり,旅とは人生である」

 何か相当な覚悟を決めて深い内容が込められていると思いきや,本文を読めば,現役を引退するということの報告で,サッカーへの思いやファンへの謝意も綴られていた。内容にとやかく言うつもりはないのだが,タイトルがどうしても許せないという思いを当時抱いた。少し旅についても触れられていたが,タイトルと中味の関連がいま一つはっきりしないブログだった。本文の内容からすれば,タイトルは「ありがとう」とか,「サッカーの旅は終わった」とかにしてほしかった。

 旅を友とし多くの紀行文を書いた,あの松尾芭蕉でさえ,実は自らの人生が旅であるとまでは言わなかった。『奥の細道』の有名な文言だが,「月日は百代の過客にして,行きかう年もまた旅人なり」と書いて,月日を永遠の旅人に喩えたのである。ましてや旅が人生であるとは言うべくもなかった。生活即旅の人生を送った芭蕉でさえ,旅と一体となる境地には達せられなかったと言うべきか。ともかく,「人生は旅である」なんてことを軽々しく言ってほしくなかった,というのが僕の言い分であった。

 僕が知る限り,心底からその境地に達して「人生は旅である」と言ったのは若山牧水(だけ)である。牧水は第二歌集「独り歌へる」自序で次のように書いた。


 私は常に思っている。人生は旅である。我等は忽然として無窮より生まれ,忽然として無窮のおくに往ってしまう。その間の一歩一歩の歩みは,実にその時の一歩々々で,一度往いては再びかえらない。私は私の歌をもって,私の旅のその一歩々々のひびきであると思いなしている。言いかえれば,私の歌はその時々の,私の命の砕片である。  (第二歌集「独り歌へる」自序より)


 牧水の場合,まさに人生=旅であり,詩歌=命であった。そのことは彼の歌を読めばわかる。旅に生きた牧水の命のほとばしりが歌になって表れている。「人生は旅である。旅は人生である」とは,まさしく牧水の言葉である。それをブログ・タイトルに使われたことで,何故だか無性に怒りを覚えたという当時の瑣末な思い出であった。

 一つ言えるのは,若くして人生を語るべからず,ということだろう。N君も「人生はただ一問の質問にすぎぬ」と書いておけば,〈かもめのジョナサン〉になれたかもしれない。


 漂泊の詩人,牧水の歌  (E-KONEXT選)

 いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや  (『独り歌へる』より)

 われ歌をうたひくらして死にゆかむ死にゆかむとぞ涙を流す  (『路上』より)

 幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく  (『海の声』より)

 問ふなかれいまはみづからえもわかずひとすぢにただ山の恋しき  (『死か芸術か』より)


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 一昨日は,忌まわしい思い出を思い出した後,ZIP-FM(名古屋のFM局)の西野カナがナビゲートする番組で,カナやんの最新曲(2/9 In Store)が全国初オンエアということで,聴いた。彼女はなんだかアホみたいな喋り方だけれども,それが却って癒しになった。新曲は,僕のカラオケのおはこ(?)「会いたくて 会いたくて」と似たような感じの楽曲。こういう詩が今の若い女の子の気持ちを代弁しているのかな,と感心しながら拝聴!YouTubeにはまだCMヴァージョンしかなかったから,それを上げておく。

西野カナ「Distance (CM)」


西野カナ「会いたくて 会いたくて」



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