ブログを書くということ | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 昨日の続きで恐縮だが,もうちょっとだけ自由について。例えば,このブログを書いている時も本当に自由になっているといえるか,考えてほしい。最初から最後まで自分自身が決断して書いているかどうか。見えない何かに縛られて書いていないだろうか。自由に自分の考えを書いているつもりでいても,実際はどこかのスポンサーに無言のリミッターを掛けられていたり,宗教の信仰・布教や商品の宣伝・販売などのために自分の考えが無意識に偏向していたりすることは,よく見受けられる。そこでは個人としての自由な発想・思考・行動は停止してしまう。本人は自由でいるつもりなのだが,ある意味洗脳されて思考停止状態であるから,第三者から見ると非常に偏狭で束縛されているように見える。そういうブログは読んでいても,あまり面白くない。その人の生の考えとか気持ちとかが現れていないからである。

 ブログとは,いわゆる公開日記のようなものだから,人に知られたくないプライバシーに関わる部分は書かないだろうし,書く必要もない。その意味で「私人」としては解放されている。が,「個人」として,公にできる自分の意見を持っているだろうか。持っている人は少ないのではないか。自分の意見を書いている人,「自個」(誤字ではない。僕の作った造語)を持っている人のブログはやはり面白い。

 さて,ここで僕に対する批判が出てくるだろう。「お前は,個人とか自由とか人権とかいっているが,そういった概念は近代西欧から出てきたものじゃないか。非西洋の地域では違う考え方や文化もあるはずだ。お前も西洋の考えに縛られている西洋かぶれじゃないか。」,と。確かに僕が提起してきた考えは,西洋に由来するものが多い。特に「個人」や「自由」といった考え方は,近代西欧の思想を受け継いでいる。そして,非西洋の地域では違った思想や文化があることも了解している。だが,それがたとえ西洋発祥のものでも,こと社会に関する思想・認識においては「個人」や「民主主義」といった考え・観念が,非西洋を含めたあらゆる地域に普く通じる普遍性を備えていると考える。それ以外に共感できる社会原理は今のところ見つけられていない。これは社会原理に限った議論である。文化の多様性は認められねばならないし,宗教の自由ももちろんある。

 「個人」の解放・尊厳を原理として社会を考察し,そういった社会を作り上げていく。未来に希望が持てる社会像としては,それしか僕の中では浮かばない。非西欧・非キリスト教圏の人たちからすれば,西洋的・キリスト教的な価値観の押し付けと映るかもしれない。だが,一人一人の個性や命を大切にするという価値に,僕は普遍性を見出す。この捉え方は正しくないかもしれない(正しいか正しくないか,の判断基準は難しい別問題なので,これについては省く)。だが,今までの研究・思索の積み重ねの上に,自分の中で自由に考え,自分自身で決定した意見である。だから,この意見についての責任の所在も僕にある。


 硬い話はこの辺でお開きに。ところで,こういった硬い話と,音楽レビューとは別々のブログにしたらどうか,という意見をいただいた。3月は慌ただしい時期なので,これについては4月にまた考えたいと思う。貴重なご意見に感謝したい。

 今日は,非西洋(ヨーロッパ・アメリカ以外)のアーティストをピックアップしたい。アフリカはセネガル出身でイスラム教徒のユッスー・ンドゥールの楽曲を2つ。ネナ・チェリーとのデュエット 7 Secondsと,フージーズのワイクリフと組んだHow Come。3曲目は,コリアン・ラッパーという印象だったが,実際は生まれも育ちもカリフォルニアだったケロ・ワンのWelcome to The Bay