ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

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 前回は,東京都知事選の結果を受けて,日本や東京には個人の自覚と責任を持って政治に参加する市民ではなく,思考を停止した無知・無自覚な群衆しかいないことを,フランスやイギリスを横目で見ながら絶望的な気分で書いた。そのことは,むしろ選挙後に激しさを増した蓮舫へのバッシングで,より一層明らかになったといえよう。この国には同じ顔をした狂気の群衆しかいない…

 

 いま「狂気の群衆」と書いたが,ノーベル賞作家で群衆と権力の関係を追究したカネッティの類型化(迫害群衆・逃走群衆・禁止群衆・顛覆群衆・祝祭群衆)にあてはめれば,蓮舫叩きをこぞって行っている日本の群衆は「迫害群衆」の性格が極めて強い。迫害群衆とは,誰か標的・生贄を作り出し,それを迫害・排除・追放するために堅く結束した状態にある群衆の類型である。そもそも群衆というのは社会や共同体の危機を刻印しているが,特に迫害群衆は,危機の度合いが高く,のっぴきならない状態において現れる。つまり危機脱出のための一つの非理性的で,悲劇的なあり方として迫害群衆が出現する。

 

 まさに蓮舫バッシングというのは,右派を中心とした迫害群衆の出現を思わせるものである。右派的なイデオロギーであろうが,反動的,左翼的なイデオロギーだろうが,この群衆はそのイデオロギーを口実に暴れ回る。そこにある情念は殺意である。社会の危機と人々の混乱状態は,暴力の連鎖,死の連鎖を招く。その社会の破滅を回避するために迫害群衆が現れるのである。

 

 故・今村仁司はカネッティの『群衆と権力』から次のような一文を引用しているが,これこそ迫害群衆の本質である。

 

「群衆は,それを構成する全員の死を,この機会に一挙に免れるために,生贄に襲いかかり,処刑する」

(今村仁司『群衆——モンスターの誕生』p.53)

 

 蓮舫は生贄にされた。ここで重要な点は,これが政治的処刑であるということである。蓮舫は与党自民党やそれと一体化した小池都政を強く批判した。新自由主義がもたらした経済格差や社会的不公正を鋭く指摘し,改革を訴えた。こうした言説の広がりによって群衆の暴力の矛先が権力側に向かい得ることを,権力者は知っている。群衆の破壊的な力を回避するためには,生贄を群衆の中に投げ込めばよい。その時,迫害群衆の矛先は,権力からそれて生贄に向かう。これが政治的処刑ということの意味である。女性であり,台湾出身であり,反権力である蓮舫は生贄としてはうってつけの存在であった。蓮舫は群衆の中に投げ込まれ,迫害群衆と化した人々によって袋叩きに遭った。その迫害群衆には一般のネット民だけでなく,多くの政治家や知識人,作家,芸能人,さらにはマスコミ(新聞・テレビ)がこぞって参加した。

 

 権力はあらゆるでっち上げで生贄を作り上げ,迫害群衆を政治的に利用してきた。20世紀,ヒトラーのユダヤ人迫害やスターリンの大粛清が迫害群衆を利用したものであることは言うまでもない。本来,権力を監視し批判する役割を担うはずのマスコミや知識人もまた,迫害群衆としてこうした政治的処刑に加勢した。

 

 日本でも旧優生保護法の下で障害者たちに不妊手術が強制された。これも迫害群衆の政治利用といえる。旧優生保護法によって障害者たちが群衆の生贄にされたのである。無数の優秀な医師や官僚たちも障害者の人権侵害(迫害・排除・追放)に関わった。優れた人間の遺伝子を残し,劣った人間を淘汰するという優性思想の影響下で,不妊手術は正しいと信じ込んでいた。彼ら・彼女らも迫害群衆の構成メンバーだったのである。

 

 ナチスの親衛隊将校アイヒマンの裁判を傍聴したハンナ・アーレントは,「全く思考していないこと,それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だった」と書いた。まさしく「全く思考していないこと」が人々を迫害群衆に加わらせる根本原因であろう。

 

 SNSが発達した現代の大衆はこういう政治的処刑と迫害に無自覚なまま参加している。権力は迫害群衆に迎合したり利用したりする。そのことを自覚しないままネットを利用しているならば,私たちは単なるネットユーザーにとどまらず,無責任な迫害群衆となることを余儀なくされるだろう。インターネットは迫害群衆を日々生産する製造装置となっている。その意味では,ネットを離れて,リアルな現場で声を上げることもまた大切だなと改めて確認する…

 

 東京都知事選の結果を受けての分析や論評がほぼ出そろった感じだが,私も事前に都知事選について散々書いてきたので,気が重いけれども一応の総括はしておくべきかと思います。

 

 私はどうしても同日にあったフランス総選挙(決選投票)と比較して見てしまう。左派・リベラル側が「新人民戦線」を結成して極右(国民連合)の政権入りを阻止したフランスと,創価学会や統一教会などのカルトが極右の現職都知事と元パワハラ市長を支援して,左派・リベラルを潰した日本――

 

 まあ,今回ほど日本における政治の劣化,市民の不在が,フランスやイギリスとの比較ではっきりした選挙はなかったのではないか,と率直に思う。左派・リベラル側が手を組んで「新人民戦線」を作れるかどうか,その差はやっぱり大きい。フランス革命やレジスタンスの歴史と精神を大切に受け継いできたフランス市民と,自由民権運動や大正デモクラシーという民主主義の歴史をおざなりにしてきた日本国民たち。極右の台頭や民主主義の空洞化に対する危機感や抵抗感が全然違うのである。

 

 イギリスの総選挙でも左派の労働党が勝利した。党首のスターマーは自らが「労働者階級」出身であることを誇らしげに語り,「社会主義者」と名乗ることに躊躇しない。イギリスの民衆はこういう人物が率いる左翼政党を支持し,政権を委ねた。フランスやイギリスの市民は,新自由主義的な経済政策や極右の排外主義に対する反発や危機感を根底で共有している。だから連帯して左派を支持できる。

 

 一方,日本や東京の有権者にはそのような危機感や現状認識はなく,政局や感情レベルでの確執や対立にいつまでも拘泥して,重要な政治局面に至っても連帯ができない。結果,極右や右派ポピュリズムの台頭を許してしまう。本来であれば,フランス総選挙のように,左派・リベラル側が連帯して蓮舫を支持し,極右政治家の三選を阻むという構図があるべき姿だった。だが実際は,極右・カルト側が結束して小池&石丸を支援し,リベラルを分断・粉砕するという最悪の逆回転現象が起こったのである。しかも,資本と対決すべき労働組合の中央組織である連合が,大資本と結託して開発と新自由主義を押し進める小池百合子を支持するというのだから話にならない。労働者団体が極右の民族差別主義者・新自由主義者を支持するというのは,ヨーロッパでは理解できない現象だろう

 

 要は,フランスでは市民,民衆が政治を決定するために結束したのに対し,日本・東京では大衆が市民として政治に参加することを放棄し,カルトが政治決定権を行使した。こうした対比において自然と浮かんでくる問いは,なぜ日本では市民,民衆が成長して力を持ち得ないのか,という論点であろう。なぜ日本には無知で愚かな,政治的に無自覚な群衆(大衆)しかいないのか――

 

 その点の分析には,トクヴィルやJ・S・ミルが唱えた「多数者の専制」という概念が有効だ。「多数者」とは,単なる数的存在ではなくて,一個の独自の存在である。すなわち「多数者」とは人間の塊であるところの群衆である。そして,それは必然的に「専制権力」なのである。これがトクヴィルの近代民主主義のとらえ方であった。

 

多数者の支配が絶対的であるということが,民主政治の本質である。なぜかというと,民主政治では多数者以外には反抗するものが何もないからである。

(トクヴィル『アメリカの民主主義』。今村仁司『群衆』p.152参照)

 

 多数者としての群衆は社会のすべてを呑み込んでいく。個人や階級を溶解させ,群衆の中に埋没させていく。これがトクヴィルのとらえた近代社会の必然的な傾向であった。個人や階級,階層の境界線が消えて,すべてが同質・一様でのっぺらぼうになる群衆社会が,専制権力を生み出すというわけである。専制主義が群衆を生むのではない。私たち群衆が専制政治や独裁者を生むのである。

 

 トクヴィルは「民主主義的デスポティズム(専制政治)」という言い方も使っている。つまり近代の民主主義とは,群衆という名の家畜的な群集が日々生産する政治権力とその制度なのであって,それは民主主義的な形式をとりながらも実質的に専制主義となる。アメリカやロシアのような平和的な大統領制を採ろうが,ナチズムやスターリニズムのような軍事的なファシズムの形を採ろうが,「民主主義的デスポティズム」という本質は変わらない。繰り返すが,群衆がこうした専制権力,独裁を作り出すのであって,逆ではない。

 

 まさに現在の日本の政治状況は群衆民主主義であり,「多数者の専制」である。無知で愚かな群衆が極右の民族差別主義者,新自由主義者を首長に選んだのである。これが「民主主義的デスポティズム」でなくて何だろうか。こうした「多数者の専制」「民主主義的デスポティズム」に抵抗する市民,民衆の運動がフランスの「新人民戦線」であった。

 

 日本で必要なのは,こうした「多数者の専制」→ファシズムに抵抗する運動(人民戦線)であり,それを担う自覚的・倫理的な市民,民衆である。日本にもパレスチナの旗を掲げる「不服従のフランス」が必要なのだ。だが日本にメランションはいるか,スターマーはいるか。すぐに名前が出てこないのが悲しい。日本にアタリやピケティはいるか。悲しいかな,知識人のレベルも違いすぎる。けれども今もガザで虐殺が続いている。昨日はイスラエル軍による攻撃で350人を超える死傷者が出た。私たちが立ち上がるしかないのだ。さあ,パレスチナの旗を掲げよう!日本版「人民戦線」を結成しよう!

 

 

 PUSHIMねえさんが沖縄のフェスで「今の時代に参加するということ。具体的には選挙に行ってください」と話している(上の動画)。最近は,ヒップホップやレゲエのアーティストでもこういう事を言う人がほとんど居なくなった。よく聞く言い訳は,「音楽に政治を持ち込むな」「音楽を何かの道具に使うな」というものだ。スポーツでも同じようなことが言われる。「スポーツと政治は関係ない。スポーツに政治を持ち込むな。」

 

 だが実際のところは,「政治のことを言うといろいろと面倒だ」とか「スポンサーがつかなくなる」「仕事が減ってしまう」といった懸念や圧力が彼ら・彼女らに働いているのだろう。とは言え,そんな本音は言えないから,「スポーツや音楽に政治を持ち込むな」と言って体裁を取り繕う。

 

 いずれにしても,そのように政治的なことに触れないでいること自体が実はすでに政治に取り込まれているのである。そのことをアスリートやアーティストたちはよくわかっていない。音楽やスポーツにおいて政治をテーマにしないことは今現在の政治権力者にとっては都合が良いわけで,恋だの愛だのとラブソングを歌ったり,勝利至上主義で勝ち負けに拘っていてさえくれれば,それが一番有難い。こうして影響力の大きいアーティストやスポーツ選手は政治的に骨抜きにされ,飼い慣らされていく。そういう政治的脱色化・無力化が今日では,社会の矛盾や差別に敏感なはずのアンダーグラウンドのアーティストにも及んでいるのを私は実感するのである。

 

 それどころか,自ら権力者におもねり,悪政に手を貸す人気プロレスラーまでいて頭が痛い。この鈴木みのるが新日本プロレスやパンクラスで追い求めてきた強さとか闘いとは一体何だったのだろうか。「長い物には巻かれろ」的に思考を停止して大衆と権力に媚びを売ることが,結局のところ彼の強さの証明なのだろう。「都電プロレス」にとって東京都は大切なパトロンとは言え,このパフォーマンスには誰しも幻滅しただろう。

 

 

 そんな時代状況の中でもPUSHIMが「搾取」や「戦争」を自分たちの身近なこととして考えようと,相変わらず政治的な切り口で話をしていたのは嬉しかった。もちろんソウルフルな歌声は健在だ。黒人の魂を持っている数少ない日本のレゲエシンガーだと思う。ここ最近は急な暑さで体調が悪いが,ねえさんの歌声を聴くと気力が回復してくるのを感じる。歌には確かに力がある。

 

 10年前(2014年)の都知事選の時,ECDさんがKダブシャインと一緒に渋谷をジャックしてライブをやった。「選挙に行くって約束しろよ,選挙行かなきゃ歌わないぞ」と言って,聴衆に投票を呼びかけていた。今こんなことを言えるラッパーはいない。歌の最後でも「ロンリーガール,ロンリーガール,選挙行こう!」と歌詞を変えて絶叫していた。

 

 翌2015年に青山のクラブでECDさんと初めて話した。と言っても,「脱原発の運動を応援してます」と私から一言だけ。ECDさんは軽く頷いただけで特に返答はなかった。2018年,ECDさん死去。もうああいう風に政治のことを正面から語るラッパーは出てこないかもしれない。そう思うと残念でならない。

 

 ECDには「MASS対CORE」という楽曲がある。鈴木みのるのようにCOREであることを忘れて,MASSに埋没してはいけない。そんな趣旨の歌だ。ECDが言うようにMASSに流されてはいけない。時代の傍観者であってはならない。CORE(思想)を持って時代に参加しよう。それがPUSHIMやECDの言いたいことだろう。「ロンリーガール,立ち上がれ!ロンリーガール,投票しよう!」