前回は,東京都知事選の結果を受けて,日本や東京には個人の自覚と責任を持って政治に参加する市民ではなく,思考を停止した無知・無自覚な群衆しかいないことを,フランスやイギリスを横目で見ながら絶望的な気分で書いた。そのことは,むしろ選挙後に激しさを増した蓮舫へのバッシングで,より一層明らかになったといえよう。この国には同じ顔をした狂気の群衆しかいない…
いま「狂気の群衆」と書いたが,ノーベル賞作家で群衆と権力の関係を追究したカネッティの類型化(迫害群衆・逃走群衆・禁止群衆・顛覆群衆・祝祭群衆)にあてはめれば,蓮舫叩きをこぞって行っている日本の群衆は「迫害群衆」の性格が極めて強い。迫害群衆とは,誰か標的・生贄を作り出し,それを迫害・排除・追放するために堅く結束した状態にある群衆の類型である。そもそも群衆というのは社会や共同体の危機を刻印しているが,特に迫害群衆は,危機の度合いが高く,のっぴきならない状態において現れる。つまり危機脱出のための一つの非理性的で,悲劇的なあり方として迫害群衆が出現する。
まさに蓮舫バッシングというのは,右派を中心とした迫害群衆の出現を思わせるものである。右派的なイデオロギーであろうが,反動的,左翼的なイデオロギーだろうが,この群衆はそのイデオロギーを口実に暴れ回る。そこにある情念は殺意である。社会の危機と人々の混乱状態は,暴力の連鎖,死の連鎖を招く。その社会の破滅を回避するために迫害群衆が現れるのである。
故・今村仁司はカネッティの『群衆と権力』から次のような一文を引用しているが,これこそ迫害群衆の本質である。
「群衆は,それを構成する全員の死を,この機会に一挙に免れるために,生贄に襲いかかり,処刑する」
(今村仁司『群衆——モンスターの誕生』p.53)
蓮舫は生贄にされた。ここで重要な点は,これが政治的処刑であるということである。蓮舫は与党自民党やそれと一体化した小池都政を強く批判した。新自由主義がもたらした経済格差や社会的不公正を鋭く指摘し,改革を訴えた。こうした言説の広がりによって群衆の暴力の矛先が権力側に向かい得ることを,権力者は知っている。群衆の破壊的な力を回避するためには,生贄を群衆の中に投げ込めばよい。その時,迫害群衆の矛先は,権力からそれて生贄に向かう。これが政治的処刑ということの意味である。女性であり,台湾出身であり,反権力である蓮舫は生贄としてはうってつけの存在であった。蓮舫は群衆の中に投げ込まれ,迫害群衆と化した人々によって袋叩きに遭った。その迫害群衆には一般のネット民だけでなく,多くの政治家や知識人,作家,芸能人,さらにはマスコミ(新聞・テレビ)がこぞって参加した。
権力はあらゆるでっち上げで生贄を作り上げ,迫害群衆を政治的に利用してきた。20世紀,ヒトラーのユダヤ人迫害やスターリンの大粛清が迫害群衆を利用したものであることは言うまでもない。本来,権力を監視し批判する役割を担うはずのマスコミや知識人もまた,迫害群衆としてこうした政治的処刑に加勢した。
日本でも旧優生保護法の下で障害者たちに不妊手術が強制された。これも迫害群衆の政治利用といえる。旧優生保護法によって障害者たちが群衆の生贄にされたのである。無数の優秀な医師や官僚たちも障害者の人権侵害(迫害・排除・追放)に関わった。優れた人間の遺伝子を残し,劣った人間を淘汰するという優性思想の影響下で,不妊手術は正しいと信じ込んでいた。彼ら・彼女らも迫害群衆の構成メンバーだったのである。
ナチスの親衛隊将校アイヒマンの裁判を傍聴したハンナ・アーレントは,「全く思考していないこと,それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だった」と書いた。まさしく「全く思考していないこと」が人々を迫害群衆に加わらせる根本原因であろう。
SNSが発達した現代の大衆はこういう政治的処刑と迫害に無自覚なまま参加している。権力は迫害群衆に迎合したり利用したりする。そのことを自覚しないままネットを利用しているならば,私たちは単なるネットユーザーにとどまらず,無責任な迫害群衆となることを余儀なくされるだろう。インターネットは迫害群衆を日々生産する製造装置となっている。その意味では,ネットを離れて,リアルな現場で声を上げることもまた大切だなと改めて確認する…
都知事選に立候補した蓮舫さん@renho_sha への誹謗中傷の酷さには言葉を失うが、そんな中、7月21日日曜日、14時半〜新宿アルタ前で、菱山南帆子さん@nahokohishiyama らフェミブリッジが主催した「女たちは黙らないよ!With R… pic.twitter.com/OAWSukFtX1
— 望月衣塑子 (@ISOKO_MOCHIZUKI) July 21, 2024