誰が悪い、ということではない、ということ。
とあるブログでの記事に長文コメしてしまったので
ちと改めて整理して、ちょいと書いておこう。
というのも、こうやって書くことで、書いておけば、
少しでも、その「思い」は広がると思うからですよ。>某氏
ということでまずはその記事の概略をば。
とあるご婦人、まだ歳もいってない方なのですが、
まぁ、杖がないと歩くのにも支障がある方なのですが、
例えば、後ろから押されたりされようものなら、すぐ転んでしまう程とか。
その方が、スーパーで、子供乗せたカートで勢いよくぶつかられたそうで。
それでどうなったのか詳細は解らないのですが・・・
珍しく、簡潔に結論から申しますれば、
「誰が悪い、ってわけではない。」
のですね。
他人の無理解を責めることはいくらでもできます、けど、
それは責めた所で、結局は何も生み出さない。無駄、なのです。
ほとんどの場合、解らない人には何を言っても解らない。残念ながら。
この場合でいえば、まだ若い人が杖を持っていても、
これはですね、そこで気にかけてくれる人は、悲しいかな、少ないです。
白地に赤の視覚障害を意味する杖を持っていてさえ、
平然と真っ向からぶつかっていく人も山ほど居ます。悲しいことに。
そんな世の中ですから、そうでないありふれた色の杖を持っている人に対し
「あ、この人困ってるのかな?」と思ってくれる人は、
これは、実際はごくごく少数派なのです。大変悲しいことに。
だからといって、それに気づけない人というのは、
ふざけてるわけでもなければ頭がおかしいわけでもない、
ただ、考えてないだけです。というとちょっと語弊がありますね、
単に、「考える」という概念がないだけです。
要は「知らない」のです、ただそれだけのこと。
別に悪気があるわけでもない、単にその相手の状態を知らないから、
そうなってしまっただけ、という結果論。誰も悪くないの。
でもひとつ可能性があるとすれば、「知ろうとする努力」が足りないかな、
ということは言えるのかも知れないけど。
でも、世の中、不自由なく生きていれば、「不自由でない」ということを
考えるというのは、なかなかに結構むつかしいことでもあります。
先日の私の遭遇した話になりますが。
列車内で、ワタクシは座っていたのですよ、つり革に掴まれないですし。
(ご存じない方もいらっしゃいますね、私は腕全体の腱を痛めている為)
でも「私以上に大変そうに見える」ご婦人が乗ってきたので、
席を立ったわけです、したらば、すかさずどこから来たのか、すすっと
すばやく座られてしまったのですよ、まるで私が降りるのか、て感じで。
それを見て、私とそのご婦人は思わず顔を見合わせてしまったわけですが。
しかしながら、その座ってしまったにーちゃんも、別に悪気はないはずで。
ただ単に「知らない」だけ。そしてそれは「罪」ではない。
そのにーちゃんを責めようとする人がいたとしたら、それは筋違い。
「そういう場合は諭すべきでは?」という論もありますが、
私はそれは、ちょっと違うかな、と思います。
だって結局は「知らない」他人に何を言った所でほぼ意味がないからです。
もしそこで気づけるような人だったら、とっくに気づいてます。
所詮「その場限り」で終わるのがオチです。
幸い事態は、それよりも少しでも進歩的な出来事にその後すぐなりました。
列車がゆれてしまい、いや、揺れる地点が来るのが私は解っていたので
(だからその前の時点で席を譲ろうと思ったわけですが)
まだご婦人のそばにいて幸い、倒れることなく支えることができました。
これで、一件落着なのです、よかったよかった、なのです。
しかし世の中捨てたもんじゃありません。
それを、少し離れたとこに座っていたおじさまが見てらしたのです。
おじさまはお仕事中の移動らしく資料広げて読んでいたのですが、
我々の方へ向かって軽く手招きしてくださって。譲ってくださったのです。
これでご婦人は座ることが出来て、これでほんとに一件落着。
更に感動すべきは、そのおじさま、私の腕に気づいたのでしょうかね、
たぶんそうなんだと思います。私支えた時に手でなく腕を出してたので。
ご婦人が元々いたドア脇の手すりのところへは行かず、
(普通ドア前が空いたらそこに陣取るのが人間の習性ですものね)
ご婦人の前に立って吊革につかまってくれたのです。
かくして私も有り難いことに、ドア横の手すりにつかまることできまして。
本当にこれは有り難いことで。(縦の手すりならば大丈夫なの)
ほら、こうやって書いてみると、「悪い人」っていますか???
それどころか、こんなにもいい人がいらっしゃるじゃないですか。
(注:私のことではなく、私にさえ配慮してくれたこのおじさまですよ?)
ね、世の中捨てたもんじゃないです。
解る人は、解る。見てる人は、見てるものなのです。
でもそれは、誰が悪くて誰が良い、とかそーゆーお話ではないのです。
割り込んで座ってしまったにーちゃんには概念がなかっただけ。
私が席を立った意味や、すぐ横にご婦人がいたことに気づかなかっただけ。
一方で、私やそのおじさまの価値観では「当たり前」だっただけで。
んだから、別に後者が「良い人」とか、そーゆー問題ではないのです。
むしろ、そういう考え方をしようとするから、色々と問題になる。
「善意」というその個人の「(極個人的思いこみという範囲での)常識」
ただそれだけのお話なのです。
この辺は以前の記事「常識、という言葉の使い方」のお話ですよね。
http://ameblo.jp/e-kenblog/entry-10646353300.html
参考までに。
そう、知ってるか知らないか、ただそれだけ。
そういう価値観があるのかないのか、ただそれだけのお話なのです。
んだからそれを一方的に、どちらが良くてどちらが悪いとか、
そういうことは、やっぱり言ってはイケナイ。
わたしは先のにーちゃんに対しては、「あ、解らなかったか」と
とりあえず苦笑いするだけで、別に諭そうとも思わないし、
ましてや蔑むココロなどは到底ありませぬ。
だって、そんな気持ちになっても、誰もシアワセにならないじゃない。
自分が悲しくなるだけです。
けっこー前の話になりますが、
私がバスに乗ってて、途中の停留所で車いすの方が乗ってきた、という件。
随分と前のことなので覚えてらっしゃらないかたも多いと思うので
概略だけ説明すると。。。
私は結構後方の席に座っておりました。バスは立ち客が少し出る程度。
そこに、とあるバス停で車いすの方が待ってらしたのですね。で運転手さんが
「すみません、どなたかお手伝いお願いできませんでしょうか」と放送。
しかし誰も微動だにせず。
さてこれは、この周りの動かない方々が、果たして薄情なのでしょうか??
果たして、そう言い切れるのでしょうか??
答えは明らかに「NO」です。
私なりに周りを見回した所、その人たちにも何かしらの「対応できない」
理由があることが私には一瞬でわかりました。
ヒールのおねえさま、仕事帰りでほんとに疲れてそうなおじさま、
試験前なのか単語帳に一生懸命な高校生・・・などなど、
その他、その人たちなりに、手伝うことが無理な理由があるわけで。
それはその人なりに「無理」である正当な正当すぎる理由です。
で、ご存じない方の為に続けますと、
ま、おいらしかいないよな、と、私が行ったわけですが、
お察しの通り、私の手首ではそもそも車いすを持ち上げるのは不可能で。
しかしそこで運転手さん、とても気の付く方でした、すばらしい。
私には下の方を支えていてくれさえすれば構わないですと言って下さり。
支えて身体で押してさえくれれば持ち上げますから、というお話。
これにて、この件も一件落着。
でもこれ、ひとつ言えるのは、世間的に言えば、
私の行動は「単なるお馬鹿さん」とゆーことになります。
「ふがいない思いをしたくない」というただそれだけの気持ちで手伝い、
結果、その後腕が痛むことになる。それはただのお馬鹿さんです。
もしかしたら、その車いすの方や、運転手さんにも、
その後の心配をかけてしまったかもしれない可能性さえあるのです。
つまりこれ、「善行」とは必ずしも言えないわけです。
だし、自分でもそんなことは微塵も思っておりません、
というのも、それは自分の中での「常識」を行使しただけだから。
私が黙って座っていれば、もしかしたら余裕のある他の方が、
して下さったことなのかも知れないのです。
すると、私のしたことは「余計なこと」だった可能性さえあるのです。
でーもね、
長くなってきたのでそろそろ総括しましょう。
そこでもし、誰かが「気づかない」ことがあったら、
それは、その場に居合わせた人は一生気づかないかも知れません。
でも、それを見てただれか一人は、気づいたかも知れません。
見てただけ、それは悪いことでも何でもなく、むしろ良いことなのです。
その時に見たことによって、後々またどこかで同じような状況に
それを見ていた人が遭遇した場合、もしかしたら、
それこそが新たな行動に結びつく可能性は十二分にあります。
ですから、その場で「動かなかった人」を、やはり責めてはイケナイ。
諭してもいけない。何故ならその必要はないから。
むしろそうしないことで、ただ「見ている」をしてもらうだけでも、
それだけで、次につながるものは必ずあるはずだからです。
かといって、その行為を、いかにも「してるんだぞ」なんて見せつける輩は
それこそ最低野郎です。そんなに自分が正しいのですか?てお話。
「さりげなさ」が、人の心を動かすのではないか、
これは私の考えの根底にはいつもありますね、
「季節をさりげなく先取りすること、これが日本人の粋」
(メモにはしてあるので後日記事にするかもしれません)
ここにもつながるお話だとも思います。
日本人だったら、なんとなーくでも、わかると思うのですけどね。
ですからして、我々はちょっと先取りしてみただけなのです。
それを、「ちょいと粋な心意気だね」くらいに思ってくれたら、
たぶんそれは、とても良い連鎖を産んでいくのだと私は思います。
誰が悪い、ということではない。
そう思うよりも、輪を広めるきっかけをさりげなくつくること。
これができたら、う~ん、粋だなぁ、って私は思いますけどね。
しかしながら。
こんなこと書いている私だって、色々考えながら歩いてるつもりでも、
まだまだ「気づけてないこと」は山ほどあるんだと思っています。
ただ街を歩いているだけでも、結構迷惑かけているかもしれません。
いや、かけているんだろうな、と思いつつ、日々気を付けて気を付けて
いつも何か吸収しようとアンテナ張り巡らせておりますが。
それでもご迷惑おかけしております、申し訳ないです。
だからこそ、誰か他の人の「粋」、みてみたいですよね。
あらゆるいろんな意味で、あらゆるいろんな場面での「粋」。
そんなすばらしい心意気を持った日本人という人たち、
そんなすばらしい伝統を受け継いできた日本という国、
私は、それが大好きなのです。
私が「日本人音楽家」であることにこだわりたい理由の一つ、
たぶんそこにもあるんだあろうな、てのは余談の余談。
男性疲労。
視力が明らかに落ちてます、更に;
パソコン椅子の位置が前にずれていることで気づいた;
ほら、PCは左右上下(下はペダルだけど)鍵盤に囲まれているわけで、
気づいた時には1オクターヴ近く位置が変わっていた;;
(ちなみに一般的ピアノ鍵盤の1オクターヴは約16.5cm)
原因は明白、テレビなんて全くみもしなかった人が
去年あたりから「映像に対する音・音楽」の研究に本腰入れて
以来、一日の中で結構な時間、映像をみてるからなぁ。
乱視もひどくなってるし、、、
んまぁ今でも忘れない、大学入って最初の講義で
「まぁこの業界なら乱視は覚悟しておけ」と言われ。
そりゃ一日中、たった6mmの間に5本もの線が並んでる所に
描いたり消したりしていりゃぁそりゃなるでしょ、
見てるだけだってなるってゆーのに;
(とゆーことでパート譜よりスコアの方が目に悪いですな;)
ところがこの一年で、メガネふたつ作ってるんだよね;
去年ひとつ転んで派手に壊してしまったので;
みゅー。。。。
しかしやっぱりメガネが合わなくなってきているらしく
仕事以外の時はすぐ外してるし、そーいえば、、、
非常に疲れが溜まるにょ。。。
そーいえば昔、って小学生の時とかのお話ね、
眼精疲労には女性はならないものなんだと思ってました。
「がんせいひろう」じゃなくて
「だんせいひろう」だと勘違いしてたんですって。
お後がよろしいようで。
「常識」という言葉の用い方。
~関係ないようで音にも関係あるので、カテゴリは「音的思考」~
唐突ですが、私に言わせれば、「常識」とは「極個人的な思いこみ」である。
(勿論この「個人的」にも様々な範囲が存在するということは後程。)
どうも、この「常識」という言葉を勘違いしている人がいて困ることがある。
それに反論して「いや、それはあなたの中での常識でしょ」って言葉を発する人もいるが
実は、それも必ずしも正しい表現だとは言い切れない。
三省堂国語辞典に拠れば、「常識」とは、
「その社会が共通に持つ、知識または考え方」
とある。
これでは一見、明確な説明にはなってないようにも思えるが、
目を付けるべき所は「その社会」という表現である。
つまり、「常識」という言葉を用いる時には、
「その社会」というのが、どういう範囲なのか、
ということが明確にされる必要がある、ということである。
この「範囲」も、これは当然その設定の細かさも場合によってまちまちになる。
例1、
「定食とは、ご飯と味噌汁がついてくる」
という事象は「日本人の常識」ということで大方の同意は得られるだろうが、
「そうめんとは、具材も何も載せておらず、麺・つゆ・薬味があるだけ」
という事象は、「日本人の常識」という言葉では明らかに不備がある。
例えば私の経験では、大阪ではそうめんには冷やし中華の如く具が載っている。
もしかしたら、私の知らない地域の食べ方が他にあるかも知れない。
どちらにしろ、大阪のそうやって食べているだろう人口は、
これは「日本の常識」と言い切るに見過ごせる数ではないだろう。
つまりこの場合、「日本人の常識」だけでなく、
「○○である(或いは、○○でない)日本人の常識」のように、
補足の追加表現をすることが、実は望ましい、ということになる。
(しかし来日者にそうめんを振る舞う時に、さてどうするか、とか、
そもそもが「日本人の常識=ほとんどが東京人の常識」という
前提の上に社会が構築されてしまっている、とかその辺はまた別の機会で。)
勿論、この補足が必要ない場合もある。
簡単なことだ、例えば生粋の東京人同士の仲間内であったら、
当然、このような補足は必要ないだろう、それどころか、
「そんな補足追加説明はありえない」ことが
「その社会の常識」である場合もあり得るわけだ。
例2、
「次の列車は、短い11両編成でまいります」
というのは、私の出身地では「常識」であった。長い時は15両だからだ。
しかし自分で少し遠方の別の列車の地域まで出かけるようになり、
「長い:6両、短い:4両」という地域が割と近くにあることを知った。
しかしそれでも「短い11両の」という常識が通用していたのは、
「その他の地域まで利用しない人も数多くいる」という「その社会」だからだ。
或いは「他の地域は知ってるけど、この地元はこれが標準だから」ということで。
つまりこの場合には、
「○○町の列車であまり出かけない人の常識」とまでの表現は必要なく、
「○○町の常識」という表現でも、大方の賛同は得られるわけである。
いわば「その町の社会的暗黙の了解、という、常識」があるからに他ならない。
このように、やはり「常識」という言葉を使う際には、
その発信先の「社会」と、発信・論述元の「社会」の、
「常識」の違いを認識した上でこそ、初めてまっとうなものになるのだ。
どうも昨今のマスコミの報道でも、ここがちゃんとなってないものが
多々見受けられ、これはある意味では非常に「あぶない」思想にもなりうる。
つまり、「押しつけの常識」になってしまうのである、
いわば「流行を統制する」というようなことにも似ている。
それは言い換えてしまえば「独善的」ということに他ならない。
殊に、今の社会は、上記のような日本だけでは済まない問題も多数ある。
そこに、世界に対して独善的に「常識」を押しつけてしまっていることも
これは多々あることなのではないだろうか。
(ここで生じる問題に関しては他稿に譲ることとする)
しかしここで、更に危険なことも生じかねない。
「○○の国には日本の常識は通用しない」とかいう表現は、
実は自国の「日本の常識」というものの範囲についての考慮を欠いていて、
無意識のうちに「極個人的な常識」になりかねない。
その「個人的」の範囲だって、大多数の一般人ならたかが知れている。
例3、
おいらが、(一応専門柄、音楽界での例になってしまうが)
殊に「音楽留学」に対して慎重な態度を長年とってきているのもそれである。
要は「日本の音楽の常識」という範囲も曖昧なままに、
それで世界を学べるのか、或いはその後、それを十分生かせるのか。
というか、あなたは日本人で、何処に行って、将来も日本の音楽家ですか?とか。
(範囲どころかそもそもの自国知識が足りない、というのはもはや論外で。)
「日本での常識」を範囲も現状もしっかり認識していないからこそ、
今の日本の音楽界での「日本の音楽の常識の崩壊」があるわけである。
大学時代のエピソードになるのだが、とある講義中に、
「琴には何本の弦がありますか?」という質問が投げられた。
「平調子ならミラシドミファラシドミファラシ、で13弦です」
と答えられたのは、その場30人ほどいた中で私だけだったのだ。
勿論私はこれが「日本の音大生の常識」なんてことは思ってはいないが、
余談だが、義務教育内、中学の音楽の教科書にも実は載っている事象である。
しかしながら物事の本質は、そこに拠ることはない。
いくら教科書に載っていても「覚えてない」「習わなかった」
という場合の方が、いや、大多数であろう。
かくいう私さえ、授業で覚えたわけではなく、
幼少期より実際に琴に触れていたから覚えていただけのことで。
つまるところ、これは「自身の常識」に過ぎないとも言い切れる。
(当然その場で「これが常識」なんてことは考えもしなかったが、)
(でもさすがに他に誰もいなかったのは、音大生として淋しかったが;)
つまり極論だが、この事象については「日本の音大でも答えられないのは常識」
だと言い切っても(さすがに日本人音楽家として甚だ悲しいことではあるが)、
これは、正しい表現だ、ということができる。
しかし逆にここでもうひとつふたつ別の「常識」を定義することも出来る。
「義務教育を完璧に享受した or 日本伝統音楽にある程度触れてきている人なら常識」
「海外留学を目指しているのだから、日本伝統音楽の主な知識はあるのが常識」
とかね。
しかし後者は、もはや崩壊している、と言って良いだろう。
それは何故かと言ったら、現在それを教えている者が、
日本伝統音楽の知識もないままに、教鞭を執っているのであるから。
(ここで、単純にそれが悪いとかそういう議論はここでは触れない)
(残念ながら)それが現状であり、その現状に基づく「現状からの常識」と言える。
つまりこれが、先に述べた、「今の日本の音楽の常識の崩壊」であり、
その「崩壊した状況」が「現在の常識」に取って代わっているのはもはや明白である。
そういえば、
少し前に、大学院まで行ったピアノの人が、
「今年の(学部)1年生で、○○の曲さえも知らないとか、常識では考えられない」
とか嘆き言っていたことがあるが、これも大きな間違いで、
その人が大学院なのはともかく、確かにその世代の音大ピアノ科では「常識」だった、
が、しかし、音大もいわゆる「大学全入時代」に突入している今、
もはやその常識は、「当時の」音大ピアノ科の常識、でしかないのである。
逆に言えば、下手をすれば後数年すればこれが逆転して、
「ピアノ科でも○○の曲くらい知らなくても1年次なら常識だよね」
という言い分の方が多数派を占めるかもしれない可能性すらあるのだから。
(これを善しとは言いたくないが、事実は事実である。)
ということで、
いくか例を挙げていたらいつもながら少々長くなってしまったが;
総括すると、
「常識」という言葉には、その「範囲」を設定することが必須となる。
それは、地理的条件だったり、気候区分、年齢、(主に育ってきた)環境、
他にもあるだろうが、このような「範囲」を明確にする必要性がある。
勿論、先に述べたとおり「その(範囲という)社会での暗黙の了解」により
それが省略されることは多々あって、それは必ずしも悪いことではない。
それなのに、
昨今の報道では、「基準の社会範囲」が極めて曖昧な状態で、
「常識」という言葉でくくってしまう場合が、少なからず見受けられる。
それは、その「社会範囲条件」の補足説明が必要なのかどうなのか、
これは、よくよく吟味されてから、初めて「常識」と言えるはずなのだ。
しーかーしーなーがーらー、
その「吟味されてない曖昧な範囲でくくった常識」が蔓延してくると、
今度は、実はこっちが「新たな常識」になっていくわけである。
そのことが良いことか悪いことか、ここでは触れず、
私の長年の研究テーマである、地方文化、主に民謡・方言・慣習の、
衰退消滅や融合・発展、と言った面から、機会があれば別項で触れたい。
そうでなく、恐いのは、その「常識の変化」が「押しつけ」になることである。
それではまさに、例えば植民地主義のあの戦争時代と、まるで同じではないか。
「文化の植民地化」という言葉も出てきて久しいが、これだって、
世界レベルの問題だけでなく、自分の日本の小さな地域でさえも、
実は起きていることなのだ、ということ、これは認識すべきではないのだろうか。
余談に近くなりまするが。
同じ起因要件なのと、それを解決した場合に予想される効果があるので記すが、
近年の「離婚率増加」「晩婚化」「少子化」「そもそも結婚しない」なども、
これと同じく、「常識」の問題が小さくない要因のひとつであると言えると思う。
中学の公民かしら??
「家族は社会の最小単位」という言葉がありました。
たぶんもう、この件での私の言いたいことはご理解頂けたかと。
しかし、ここまでの話からすると、もはや「社会の最小単位」は「家族」でなく、
もう完全に「個人個人」となっているような例も多々見受けられる。
家庭内崩壊のように、完全に衝突・離散している場合もあれば、
いわゆる「亭主関白」を拡大解釈して圧力的に「単位」に押し込める場合も、
はたまた、あわよくば「家族」と言えないくらいに、仲が悪いわけでもないのに
違う時間にそれぞれ違うご飯を食べるという、「個=社会の最小単位」が
明確になっている場合など、まぁまだ他にも多々例はあるだろう。
「その社会が共通に持つ、知識または考え方」
家族が最小の「社会」であるならば、
家族内だけでも、共通に持つべき考え方をしっかり互いに相談、学び、
「サラダのトマトは皮むくのは常識だよね」みたいに、
そうやって言い合える環境であってほしい、
私は今も続く長い研究の途中で、ひとまずこの結論に至ったのでありました。
もしその「社会」での「常識」の共通化が(吟味の上に)図られていれば、
昨今のような家庭崩壊も、幾分防げるのでは、とも思ったりも。
(それができないから・・・てのはまた別のお話で。)
(いや、本当は、できないじゃなく、しなきゃいけないのでしょうが。。。)
そしてそこが良くなれば、連鎖的に必然的に「社会」の輪は徐々に広がり、
学校の問題、町内の問題、市内、県内、地方、国、そして世界へ、
たったその小さな単位単位でのこそ努力が、
自分の為にも、世界の為にもなる力を秘めていること、
「一人一人が世界を救う」「愛は地球を救う」なーんて、
方法論の理解も吟味もせずにただ言い放ってるんじゃなく、
こうやって考えてみれば、方法論はちゃんとあるのよ。
しかもこれはあくまで一例に過ぎないし、もっと良いものもあるだろう。
ま、ちなみにおいらは、サラダのトマトは皮付き派ですがね。
・・・って、わざわざオチつける必要性がどこにあるのか分かりませんが、
お堅い話にも気がゆるむオチがつくのが、
これこそ、「私のここの記事という範囲での常識」
お後がよろしいようで。
