みなさん、こんにちは。玉龍院ヒロキです。
コロナウイルス感染拡大により、お盆休みは最低限の外出しかできなくなりました。
父さんの職業上の都合で自粛生活です。
「なんとかなるんちゃうん?」と思われますが、こればかりはどうも。家族全員での協力です。
これにより家でできるのは俳句とブログ更新、読書にストレッチのみ。
おかげで未読の本を何冊か一気に読み切り、過去最短期間での読書量です。
秋は読書シーズン。
毎年食欲の秋ばっかりですが、今年はそう簡単に外食ができません。工夫次第でなんとかなるのかもしれませんが。
買い物もそうですが、幸い現在はネット通販がありますので時々利用しています。
そんななか、本棚で昨年買った本で1回しか読んだことがない本を見つけました。
「久しぶりに読んでみるか」と選んだのは、
木村盛武さんの
『慟哭の谷-北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件-』。
熊による獣害で日本史上最悪の被害を出した事件を題材にした本です。
その事件の名は、三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)。
「三毛別事件」「六線沢熊害事件」「苫前羆事件」とも呼ばれます。
あるバラエティー番組をキッカケにこの事件を知りました。
ヒグマの存在は、僕が小学5年生の家族旅行の際登別の熊牧場で見てその大きさを知り、北海道知床半島で野生のヒグマ(母親らしき親熊1匹と子熊2匹)を見ることが出来ました。
大正4年(1915年)、北海道の天塩国苫前郡苫前村大字力昼村三毛別御料農地六号新区画開拓部落六線沢(現・苫前町三渓)という開拓地で起きたヒグマの襲撃事件です。わずか100年余前の事件で、その事件現場に直接いた人はもういないでしょう。もう生の証言を聞く手段はありません。
この本を執筆した木村盛武さんは昨年9月にお亡くなりになられました。ですので、誰もが分かりやすくこの三毛別羆事件を知る唯一の方法がこの著書なのです。
木村さんの父親からこの事件を知り、執念の調査や証言集めにより「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」という調査書をまとめあげられました。この調査書が無かったら、三毛別羆事件の存在は北海道内または苫前町内に通じる話、最悪は忘れ去られてしまった話になっていたのかもしれません。この本の誕生もなかったでしょう。
改めて三毛別羆事件について。
大正4年(1915年)11月初旬、苫前村の六線沢という開拓地で事件の予兆が発生しました。最初は家屋の外に吊るして乾燥させていたトウモロコシが食い荒らされただけでしたが、徐々に被害が拡大し、12月9日ついに開拓民の太田家、10日は太田家近隣の明景(みょうけ)家にいた住人を襲撃し、死者8人、重傷者2人(最終集計数)となりました。
最終的には“宗谷のサバサキの兄”と呼ばれたマタギの山本兵吉の銃弾2発により倒されましたが、未曾有な事件として当時の人の脳裏に刻まれました。
この事件を知っていくと、明景家の悲惨な現場を間近で目撃した生き残りの少年がいたことや、ヒグマに関して人間の誤った知識が見えてきます。
事件後の三毛別や六線沢の開拓民はどうなったのか、撃ち倒した化け物級のヒグマはどうなったのか、もちろん丁寧に書かれています。
ちなみにですが、通常のヒグマは体長1.8m、体重200㎏ですが、
この襲撃したヒグマは推定年齢7,8歳の雄。前足20㎝、後ろ足30㎝。
体長が約2.7m、体重は約380kg、立ち上がると約3.5mであることから驚きです!
大人(170㎝)の約2人分ですよ!
しかも熊は山中でも時速60km走るのですから、そんな化け物級のヒグマが100年余前に実在したとは正直信じられません。
そして、元北海道の林務官であった木村さんが若き日にヒグマと遭遇した実体験も後世のために遺すよう記されています。実体験によるノンフィクションは強烈ですからね。
かつて見たヒグマを思い出しながらのボクの一行。
「あの熊は悪魔だ!必ず仇を取ってやる!」
(『慟哭の谷-北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件-』著・木村盛武、文春文庫P.41)
シンプルそうな言葉ですが、読み終わった瞬間、この一行の重さに気付くはずです。
開拓民の慟哭が聞こえそうな一行だと思います。当時の開拓民にとって、この言葉を言うことも思いつくことさえ苦しかったと思います。
現在も、山から野生の動物が下りてきて人家の畑の作物を食い荒らす被害のニュースを見たことがあります。地球温暖化により野生動物の好物の木の実があまり実ってなく、それにより冬眠に備えるため畑の作物を食い荒らしています。
僕の地元でもたまに「熊出没注意」のメールが来ます。
地元にはタヌキに鹿にイノシシに、テンらしき動物を見かけます。そしてどういうわけかキツネも見かけます。
三毛別のヒグマのように山から下りる熊の被害は甚大です。
この本を読み、熊の被害を抑えてほしいです・・・。
日日是好日
今このときを大切に。