
「大錦木曽街道六十九次 全71枚」歌川広重・渓斎英泉👤
歌川広重の街道絵の代表作のひとつ『木曽街道六十九次』は 1835~1837 年頃に広重と渓斎英泉によって描かれた浮世絵木版画の連作です。木曽街道の69宿に出発地の日本橋を加えた70ヵ所、さらに45番目の宿場の中津川は雨の風景と晴天の風景が描かれていることから全71図で構成されています。なお、雨の風景画は「雨の中津川」と呼ばれ、現存数が少なく貴重な一品とされています。
渓斎英泉は広重とともに江戸時代に活躍した浮世絵師で、文筆家でもあったことから数多くの艶本(好色本)や春画も残しています。1816年に本文・挿絵を手がけた『櫻曇春朧夜』を発表、その後も『春野薄雪』『閨中紀聞 枕文庫』など人気本を世に送り出し、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の挿絵も手がけています。
浮世絵師としては儚げな女性の美人画を描いていましたが独自の妖艶な画風の美人画で人気を博し、英泉の作品は確認されているうちの半数以上が美人画だと言われています。
美人画で一世を風靡した英泉ですが、名所絵でも知られており『木曽街道六十九次』は英泉を絵師として竹内孫八(保永堂)が刊行を始めました。しかし24図で中断し広重に引き継がれ、版元にも錦樹堂(伊勢屋利兵衛)が加わり、のちに錦樹堂の単独出版となります。広重が残りの47図を手がけ、全70景71図の完成後、版権は錦橋堂(山田屋庄次郎)へと移ります。なお広重は手がけた全作品「木曽海道」と表記し、英泉は「木曾街道」「木曾道」「岐阻街道」「支蘇路」などと表記しています。
こうして2人の絵師と、複雑な版元の移行を経て出版され続けた『木曽街道六十九次』ですが、人物画を得意とした英泉と名所絵で人気を博した広重の、画風の異なる浮世絵師によるこの作品は江戸後期に数多く出版された名所絵・風景画の中でも優れた作品の一つとして称されています。
歌川広重の街道絵の代表作のひとつ『木曽街道六十九次』は 1835~1837 年頃に広重と渓斎英泉によって描かれた浮世絵木版画の連作です。木曽街道の69宿に出発地の日本橋を加えた70ヵ所、さらに45番目の宿場の中津川は雨の風景と晴天の風景が描かれていることから全71図で構成されています。なお、雨の風景画は「雨の中津川」と呼ばれ、現存数が少なく貴重な一品とされています。
渓斎英泉は広重とともに江戸時代に活躍した浮世絵師で、文筆家でもあったことから数多くの艶本(好色本)や春画も残しています。1816年に本文・挿絵を手がけた『櫻曇春朧夜』を発表、その後も『春野薄雪』『閨中紀聞 枕文庫』など人気本を世に送り出し、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の挿絵も手がけています。
浮世絵師としては儚げな女性の美人画を描いていましたが独自の妖艶な画風の美人画で人気を博し、英泉の作品は確認されているうちの半数以上が美人画だと言われています。
美人画で一世を風靡した英泉ですが、名所絵でも知られており『木曽街道六十九次』は英泉を絵師として竹内孫八(保永堂)が刊行を始めました。しかし24図で中断し広重に引き継がれ、版元にも錦樹堂(伊勢屋利兵衛)が加わり、のちに錦樹堂の単独出版となります。広重が残りの47図を手がけ、全70景71図の完成後、版権は錦橋堂(山田屋庄次郎)へと移ります。なお広重は手がけた全作品「木曽海道」と表記し、英泉は「木曾街道」「木曾道」「岐阻街道」「支蘇路」などと表記しています。
こうして2人の絵師と、複雑な版元の移行を経て出版され続けた『木曽街道六十九次』ですが、人物画を得意とした英泉と名所絵で人気を博した広重の、画風の異なる浮世絵師によるこの作品は江戸後期に数多く出版された名所絵・風景画の中でも優れた作品の一つとして称されています。