
他人の葬儀には行くべきか、行かないべきか。漫画家の蛭子能収さんは「葬式に出るとつい笑ってしまう。だから葬式に行くのが嫌だし、自分の葬式にも来てもらわなくていいと思っている。死んだ後に他人の時間と金を奪いたくない」と本音を吐露する――。
※本稿は、蛭子能収『死にたくない 一億総終活時代の人生観』(角川新書)の一部を再編集したものです。
自分の葬式には誰も来なくてもいい👤
もっと言えば、そうした考えは僕の振る舞いともう一体化していると言えるのかもしれない。たとえば、いまの妻と付き合いはじめたころ、僕はデートしていても食事はワンコインかワンプレートで食べられるものにして、終わったらさっさと解散して、すぐにひとりでギャンブル場へ行くようなことをしていました。
「自分が時間とお金を奪われたくないから、他人の時間とお金も奪いたくない」
これはもう僕の本質的な部分から出てきたことで、それゆえ「葬式は身内だけ」「お別れ会はしない」という考えにも自然につながったのでしょう。
繰り返しますが、僕は儀式のようなものが苦手だし、そんな場所にもかかわらず笑うクセがあるので、葬式に行くとまわりに迷惑をかけてしまいます。最後にお別れをしたいという気持ちもなくはないのですが、その思いがあきらかにほかの人よりも足りないのでしょう。
そんな気持ちがあれば、笑わないはずですからね。
であるのならば、「自分は自分」と考えるほかありません。僕が死んだときには誰も来なくていいと思うし、生きている人はもっと自分の時間を大切にしてほしい。僕が死んだ日も、生きている人はそんなことを知ることもなく、自分の好きなようにわいわい楽しく過ごしてほしい。
死んだ人のためにわざわざ時間を割いて線香をあげに来るなんて、「少なくとも僕にはしなくていいですよ」と言いたいですね。
もっと言えば、そうした考えは僕の振る舞いともう一体化していると言えるのかもしれない。たとえば、いまの妻と付き合いはじめたころ、僕はデートしていても食事はワンコインかワンプレートで食べられるものにして、終わったらさっさと解散して、すぐにひとりでギャンブル場へ行くようなことをしていました。
「自分が時間とお金を奪われたくないから、他人の時間とお金も奪いたくない」
これはもう僕の本質的な部分から出てきたことで、それゆえ「葬式は身内だけ」「お別れ会はしない」という考えにも自然につながったのでしょう。
繰り返しますが、僕は儀式のようなものが苦手だし、そんな場所にもかかわらず笑うクセがあるので、葬式に行くとまわりに迷惑をかけてしまいます。最後にお別れをしたいという気持ちもなくはないのですが、その思いがあきらかにほかの人よりも足りないのでしょう。
そんな気持ちがあれば、笑わないはずですからね。
であるのならば、「自分は自分」と考えるほかありません。僕が死んだときには誰も来なくていいと思うし、生きている人はもっと自分の時間を大切にしてほしい。僕が死んだ日も、生きている人はそんなことを知ることもなく、自分の好きなようにわいわい楽しく過ごしてほしい。
死んだ人のためにわざわざ時間を割いて線香をあげに来るなんて、「少なくとも僕にはしなくていいですよ」と言いたいですね。