宮沢賢治先生臨終 | motoの徒然なるままに…Ⅱ

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日々是好日日記
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臨終👤

 

 それから二年はずっと病床にあって、詩や童話や文語詩を書いたり、頼まれればそれを発表したり、肥料の相談の返事を書いたりした。私はときどき二階に行ってレコードをかけたりしたが、だんだん「すぐ疲れるから低くしてかけよう。」と言うようになり、最後には蚊の鳴くような音で聴くようになった。

 

 昭和八年には兄は起きられるようになり、時には肥料の相談も受け、文語詩を書いたりしていたが、三月三日には三陸沿岸に大津波が襲来し、二十三メートルもある大波で死傷者三千を出し、私も釜石に急行して罹災者を見舞ったのであった。このように賢治の生まれた年と死亡した年に大津波があったという事にも、天候や気温や災害を憂慮しつづけた彼の生涯と、何等かの暗号を感ずるのである。

九月十七日から十九日までは、花巻の氏神の祭りで、この年は津波はあったが大変な豊作で、天気も良かったので町には山車も沢山通っていた。最後の祭りの晩には、賢治も門の前に出て神輿の渡御をおがみ、その後で肥料の相談に来た農家の人と長く話し込んでいたが、そのためか次の日はひどい熱が出たのである。

翌日の二十一日の昼近く、二階で「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」という高い兄の声がするので、家中の人たちが驚いて二階に集まると、喀血して顔は青ざめていたが合掌してお題目を唱えていた。

父は「遺言することはないか。」と言い、賢治は方言で、「国訳妙法蓮華経を一千部おつくりください。表は朱色、構成は北向氏、お経のうしろには『私の生涯の仕事はこの経をあなたのお手もとに届け、そして其中にある仏意に触れて、あなたが無上道に入られますことを。』ということを書いて知己の方々にあげて下さい。」と言った。

父はその通りに紙に書いてそれを読んで聞かせてから、「お前も大した偉いものだ。後は何も言うことはないか。」と聞き、兄は「後はまた起きて書きます。」といってから、私どもの方を向いて、「おれもとうとうお父さんにほめられた。」とうれしそうに笑ったのであった。

 それからすこし水を呑み、からだ中を自分でオキシフルをつけた脱脂綿でふいて、その綿をぽろっと落したときには、息を引き取っていた。九月二十一日午後一時三十分であった。

 

筑摩書房 宮沢清六著「兄のトランク」より