エヴァについては特別な思い入れがあるため、

他の映画レビューページとは異なる体裁で文章を掲載します。

私個人の感想・見解です。参照事項は下に示しました。

 

 

2020/3/23

 

私の愛してやまない、

エヴァンゲリオンについて少し書くことにする。

 

私がこうやってエヴァという作品について考察めいたものを書くのは実に14年ぶりで、

前回のものは私が14歳=中2のとき、初めて「エヴァ」に触れ、夢中になったときに書いた、考察まがいの代物だ。大した内容ではなかったかもしれないが、それでも私に映像作品を鑑賞する際の視座のようなものを与えてくれたという点では、有意義であったような気もする。

当時の私はいわゆるオタクで、中学から一貫の男子校にいたこともあってか、コミュニケーションが下手で、友人と呼べる人も少なく、また父親からのプレッシャーに日々怯えながら暮らしていたのを覚えている。まぁしかし、言ってみれば、どこにでも居る、少し内向的な少年だったのだ。

そんな折にふれたエヴァは、問答無用で私を夢中にさせた。これまで多くの人が感じてきたように、わたしもまた「碇シンジは、まさに俺のことだ、これは俺の物語だ」と感じていたのだ。

 

碇シンジと同じ、14歳のときにこの作品に出会い、歳を重ね、人生の伴侶を得、そして14年の歳月が流れた28歳のこのタイミングで、シン・エヴァンゲリオンを視聴できたことは、この上なく幸運で、恵まれた体験であったと思う。

 

マリというキャラクターについて

マリというキャラクターについて、書くこととする。

シン・エヴァンゲリオンの終わり方として、シンジとマリが結ばれることに納得がいかない、という意見がインターネット上に散見され、少し閉口した部分があったからだ。

(まぁその気持も、痛いほどわかるのだが…)

「この結末に納得が行かない人が多くいる」ということは、この物語の構造やそこから読み解ける内容について、見落としてしまっている人が少なくないのではないか、という推測が私の中で浮かび上がってきた。マリというキャラクターへの理解は、エヴァンゲリオンという、旧アニメシリーズおよび新劇場版に至るまでの全作品のテーマを理解する上で、必要不可欠だからだ。

お節介ながら、私の愛するエヴァンゲリオンという作品の理解の一助・補助線のようなものを提供できればと考え、書くこととした。
 エヴァという作品性について、そこまで造詣が深くない人も多くいるだろうから、努めて誰にでも分かりやすく、平易に述べることとする。私の、久方ぶりの作文のリハビリも兼ねさせてもらおう。

 

 前提を先に示す。

まず、エヴァという物語は、庵野秀明監督自身の物語、内面の発露である。したがって、本作においては、エヴァの世界自体も、主人公碇シンジの心情も、またその他のキャラクターも皆、庵野監督の内面性の投影であり、ある意味監督その人のことであると解釈できる。

これについては、エヴァの旧来からのファンであるならもはや異論はないだろうし、これは何も庵野監督の作品に限らず、世の中の芸術作品、物語に対し、広く一般に言えることだから、敢えて文字を割いて説明することはしない。ただし、エヴァというシリーズは、殊更にこの傾向が強く、監督の内面性がストレートに打ち出されている作品である、とは述べておく。

然るに、我々は作品の内容を読み解くにあたっては、物語内のギミックや出来事のみに腐心すべきではない。監督自身の内面、そして彼の置かれている状況をも鑑みて、初めて作品世界の全体を俯瞰し、味わうことができるといえる。

 

次に、この新劇場版は、旧アニメシリーズが存在することが前提として作られている。正確には、旧劇場版との比較によって、真に価値を発揮する作品だ、と言い換えることもできるだろう。これは、シン・エヴァンゲリオンの中で旧アニメシリーズのカットを引用・旧アニメシリーズの内容について言及しているシーンがあることからも明らかだし、庵野監督が新劇場版シリーズスタートの際に発した所信表明でも「繰り返しの物語」であると名言されていることから、明らかである。

 

 さて、マリは、あらゆる意味で特異なキャラクターである。

 その特異性・異質性は、キャラクターの登場の仕方、デザイン、性格、あらゆる方面で強調されて描かれている。いってしまえば、「浮いている」のだ。私を含めた、旧アニメシリーズの世界観が好きな人間にとっては、「エヴァっぽくなさ」故に、煙たがられるようなキャラクターだと言える。

「破」の冒頭では今までのエヴァらしからぬ陽気な鼻歌とともに登場し、今までのエヴァらしからぬピンクのプラグスーツに身を包み、今までのエヴァらしからぬ4本脚デザインの機体に乗って戦う。彼女はエヴァに乗るということ、について悩んだりもしない。

旧来のエヴァの世界、キャラクター、物語が大好きだった人たちにとっては、一種の「空気の読めない、邪魔者」キャラクターなのだ。僕らは、エヴァに乗ることに葛藤し、悩み、そこにアイデンティティを見出そうとして、四苦八苦するシンジ、レイ、アスカの物語を見てきて、そして夢中になってきた。エヴァに対して悩み続けること自体が、エヴァンゲリオンという作品のある種のルールであった。それなのに、この新参者は一体なんなのか、と。僕たちは物語の少年少女たちに共感し、一緒に真剣に悩んできたのに、そんなことお構いなしに、彼女は楽しげに、ずかずかと介入してくる、しかも問答無用で。

実際、私は当初、そのように感じている節があった。新劇場版シリーズで全く新しいエヴァの物語を見たい、という気持ちがある反面、一方では美しく描き直された「序」に見とれ、そのまま美しくリファインされた旧アニメシリーズを見てみたいという気持ちもあったのだ。だが、新劇場版はリファインの作品ではない。これは「リビルド(=再構築)」の作品であったのだ。マリは、まさにこのリビルドためのキャラクターだ。

エヴァというコンテンツに含まれ、実際に劇中でエヴァに乗ってはいるものの、彼女は言ってみれば「エヴァ世界の住人」ではない、物語のリビルドのために配された、アウトサイダー=外部性の象徴なのだ。

 

アウトサイダーを登場させるという行為。これはまさに、今までのエヴァと相容れない存在を物語に投入することで、「今までのエヴァ」を相対化する試みにほかならない。コンテンツの相対化は、そのコンテンツの円熟をみて、初めて成立する。相対化とは、あるものごとを俯瞰し、批判的な視点をも取り込んだ視座を獲得することだ。これが庵野監督自身の手で行われたということは、すなわち「今までのエヴァ」をすでに円熟したものとして、外側から眺め、批判し、陳腐化させるのだという宣言を、製作者自らが行ったことと同義だ。陳腐化させるとうことは、簡単な言葉で言い換えれば、「終わらせる」ことだ。

 

ここで、以降の論の理解を助け、補強するために、物語一般について少しだけ記述する。

 

物語には、それを進めるための原動力、きっかけ、つまり変化をもたらすものが必要だ。変化がなければ、そこに物語は存在しないからだ。物語を展開・推進する役割は、古来神話の時代より、アウトサイダー(=部外者、越境者)によって担われてきた。彼らはもともとそこにあった秩序を乱し、破壊し、変化をもたらす者だ。ダイナミックな物語には、必ずダイナミックな越境によって引き起こされる。

 

越境行為は形を問わず行われる。時間的にも、地理的にも、精神的な形でも、それは成立するのだ。

キリスト教におけるイエス(生・死の越境)、日本神話におけるスサノオ(天上界・下界の越境)、西遊記における孫悟空(善・悪の越境)、など神話時代の物語はもちろん、より卑近な例で言えば、もののけ姫におけるアシタカ(人・神の世界の越境)、ハリー・ポッターにおけるハリー(マグルの世界・魔法界への越境)、スタンド・バイ・ミーの少年たち(子供・大人への越境)のように、それぞれで越境行為が描かれ、物語の核をなしている。

 

上記でも示したとおり、アウトサイダー(=部外者、越境者)とは、それまでの内部にあった文脈を無視し、時にはかき乱すことで何かを進展させるものである。

また、彼らは数々の物語の中で、しばしばトリックスター(=道化、愚者、ペテン師)の姿をもって描かれてきた。シェイクスピアの戯曲「リア王」においても道化は大変重要な役割を担わされているが、こういった事例は枚挙にいとまがない。

王は、古くからその側近として宮廷道化師を置いてきた。彼らは、ときには他の誰もができない、王を「ちゃかす」役割を負ってきたのだ。それは政治の正しさを諮る為には必要不可欠な存在だった。

道化師にそれができたのは、彼らが愚かさ故に地位や面子など、守るべきものを持たない者、内部の社会的ルールから除外されている、アウトサイダーだったからだ。風刺画や、コメディアンも、これと同じところに端を発している。

「ちゃかす」ということは、言うまでもなく、あるものごとを外側から眺め、これを面白おかしく「批判」することである。

 

マツコ・デラックスというタレントを想像すると、分かりやすいかもしれない。彼女(彼?)がはっきりした物言いで人気を博し、多くの人の共感を得ることができるのも、彼女が男性・女性というジェンダーの境界を「越境」しているが故に、「外側」から物事を中立的に捉えているように見えるという特異なポジションにいるからだと言えよう。

 

エヴァという作品に立ち返ってみる。

空から突然「降って湧いたように」現れて、主人公シンジに正面衝突するマリは、正真正銘の、エヴァという物語にとってのアウトサイダー(=部外者、越境者)、外部性の象徴であることは先に述べた。そして、上述の物語一般の文法に照らし合わせてみると、彼女がトリックスターの役割を担わされるだろうことは自明である。

マリが、エヴァ世界で一人だけ「おちゃらけた」キャラクターとして描写されているのも、彼女が、文字通り道化の役割を与えられているからだと推測できる。彼女は、新参者でアウトサイダーだから、これまでのエヴァ的なルールなんかは関係ないし、エヴァ世界を外から眺めて批判する者、道化としての立場を与えられているから、それらしい立ち振る舞いをもって描かれていると考えられる。

 

しかし、では、これほどまでに既存のエヴァ世界のルールを荒らし、別の方向に推し進めていくアウトサイダーとは、トリックスターとは、具体的にはどのような者だろうか。

言い換えれば、庵野秀明という人間の中の、今までのルールを破壊して、次のステージへ推し進めようとする新参者とは一体誰なのだろうか。これまでの作中の登場人物たち、そして監督が作り上げた物語の「世界観」・「聖域」にずかずかと土足で踏み込んで、あまつさえ勝手な振る舞いをして混乱をもたらすものとは、具体的にはなにか。

 

それは、もっとも身近にして、しかしあくまで他人である、配偶者に他ならないだろう。

配偶者とは、もっとも近い存在であり、それでいて血の繋がりはない外部の者、「他者」である。

 

人は、独り身でいる間は自分のルール、世界の中で生きていくことが許されているだろうが、配偶者を得て以降は、どうあがいてもその「他者」の影響は免れない。今までの自分のルールは、嫌がおうにも、手直し、いや、全く新しく「リビルド(=再構築)」する必要があるだろう。

それは、例えば独身男性が結婚したことで、部屋の様子が一新するようなイメージであるといえば分かりやすいかもしれない。いままでは好き勝手に、「俺ルール」で趣味のものを置き、休日は好きな時間に起きて自由に生きてこられたかもしれないが、結婚し同居するとなれば、新しい同居人と、うまく共同生活ができるよう、「新ルール」を作り直さなければならないだろう。

もう一つ身近な例でいうと、ポルノグラフィティの「ハネウマライダー」の歌詞、

僕たちは、自分の時間を動かす歯車を持っていて、それは一人でいるなら勝手な速度で廻る。他の誰かと、例えば君と、触れ合った瞬間に、歯車が噛みあって時間を刻む。」を想像してもらってもいい。

配偶者は、自分の人生の外側から、あるときやってきて、人生のその後のストーリーを大きく書き換えていくものだ。

 

マリはその登場時点からすでに、構造的にエヴァという物語自身のとっての、配偶者的な立ち位置を持っている。

彼女は、物語の外側からあるとき(旧アニメシリーズの内容から大きく物語が逸脱し始める新劇場版:『破』にて)突然やってきて、その後の物語を大きく書き換えていくきっかけとなる存在だ。

マリというキャラクターは、「今までのエヴァ世界」に、ずかずかと進入してくる、避けられない「外部の象徴」、つまり配偶者のメタファーとして読み解くことができるのだ。

 

「エヴァ世界」が「庵野監督」の内面性の発露であるとするならば、これは「今までの庵野監督」のもとに、配偶者がやってきて、新しいルールのもとで彼の物語が再始動するということと同義であると言える。ゆえに、碇シンジが庵野監督の写し鏡である以上、シンジは物語の構造的に、マリと結ばれる以外、ありえないのだ。

 

・左辺、右辺の各項は、それぞれのステージにおいて同じ意味合いを持っている

 

エヴァ世界外部の象徴  作品世界のステージ

庵野監督⇔配偶者    庵野監督の現実世界のステージ

碇シンジ⇔マリ     劇中キャラクターのステージ

 

そうした観点をもって作品を見直してみると、空の上からマリがパラシュートで落ちてきてシンジに正面衝突するというシーンは、物語を演劇に例えるなら、それまで物語が進められてきたステージの外側から「闖入者」がやってくるというメタファーと読み解けるし、見方によっては、古典的なボーイミーツガールものの出会いのシーン、つまり男の子と女の子が交差点で激突する(=その後に関係性が発展し、結ばれるところまでセットで考えて差し支えないと思う)シーンのオマージュであるとも受け取れるだろう。

 

エヴァというアニメは、他者との共存性について語る物語だ。

他者との摩擦の恐怖を描いた上で、それでもなお、その恐怖に立ち向かい、共存していこうという、希望を描く作品だ。これは旧アニメシリーズからずっと一貫したテーマであった。

 碇シンジというキャラクターは、他者との摩擦を恐れ、避けて、自分の内側に閉じこもろうとする人間として描かれてきた。それは、誰にでもある恐怖で、だからこそ多くの若者が、とりわけ、その傾向が強いだろうオタクたちが、彼に感情移入してきたのだ。

 シン・エヴァンゲリオンで、シンジが「外部=他者性」の象徴であるマリと結ばれた、という結末は、そういった我々オタクに希望を示すものだ。

 あれだけ他者をさけ、自分だけのルールの中で生きようとしていたシンジでも、他者と分かりあえた、いや、分かりあおうという気持ちになって、他者と結ばれることができたのだと。今度は、あなた達の番ですよ、シンジにもできたのだから、と。

 

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||の、

「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という台詞は、

    シンジの、エヴァという呪縛からの解放の言葉であり、

(もうエヴァに乗らなくていい、エヴァに乗らない幸せがある)

    監督自身の、「今までのルール」とのお別れの言葉であり、

(もうエヴァを作らなくていい、自身が作り出した大きすぎる「エヴァ」という看板をおろす、配偶者とともに人生を歩んでゆく)

    ファンの、エヴァという作品からの卒業の、送り出しの言葉であり、

(もうエヴァについて悩まなくていい、新しい「自分」に生まれ変わってほしい)

そして同時に、それぞれが新しい一歩を踏み出すための、リスタートの言葉でもある。

シンジの、監督自身の、我々自身の、リビルドの宣言なのだ。それ故に、「少しさびしいけど、それもいいね」と、前向きな余韻を残す。

 

極論、シン・エヴァンゲリオンの後半パートは、庵野監督の結婚式のようなものであると言えるかもしれない。我々は彼の門出を、作品を通して見守ったのだ。

庵野秀明という男性は、相当に変わり者で、非社交的で、自分の世界に生きる人であると聞く。宮崎駿しかり、一流のクリエイターというものは、往々にしてそういった資質を持っているのかもしれない。しかし、シン・エヴァンゲリオンをみていると、私には、そんな庵野監督が「俺でさえも結婚できた、他者と分かりあおうと思えたんだから、お前らにもきっとできる」と、そう優しく背中を押してくれているように思えてならないのだ。

 

私が劇場で最後に拍手をしたくなったのは、新しく生まれ変わられた庵野監督自身への祝福をしたかったからかもしれない。「おめでとう」、と。

 

                                

 

 

■参考

●庵野秀明総監督『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』所信表明(2006 09/28

我々は再び、何を作ろうとしているのか?

「エヴァンゲリオン」という映像作品は、様々な願いで作られています。

自分の正直な気分というものをフィルムに定着させたいという願い。
アニメーション映像が持っているイメージの具現化、表現の多様さ、原始的な感情に触れる、本来の面白さを一人でも多くの人に伝えたいという願い。
疲弊する閉塞感を打破したいという願い。
現実世界で生きていく心の強さを持ち続けたい、という願い。

今一度、これらの願いを具現化したいという願い。

そのために今、我々が出来るベストな方法がエヴァンゲリオン再映画化でした。
10年以上昔のタイトルをなぜ今更、とも思います。
エヴァはもう古い、 とも感じます。
しかし、この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。

閉じて停滞した現代には技術論ではなく、志を示すことが大切だと思います。
本来アニメーションを支えるファン層であるべき中高生のアニメ離れが加速していく中、彼らに向けた作品が必要だと感じます。
現状のアニメーションの役に少しでも立ちたいと考え、再びこのタイトル作品に触れることを決心しました。

映像制作者として、改めて気分を一新した現代版のエヴァンゲリオン世界を構築する。
このために古巣ガイナックスではなく自身で製作会社と制作スタジオを立ち上げ、初心からの再出発としました。
幸いにも旧作からのスタッフ、新たに参入してくれるスタッフと素晴らしい面々が集結しつつあります。
旧作以上の作品を作っている実感がわいてきます。

「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。
同じ物語からまた違うカタチへ変化していく4つの作品を、楽しんでいただければ幸いです。

最後に、我々の仕事はサービス業でもあります。
当然ながら、エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画として面白さを凝縮し、世界観を再構築し、
誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します。

2007年初秋を、御期待下さい。


原作/総監督 庵野秀明

●映画パンフレットには、マリのキャラクター造形については、例外的に庵野監督が関わらないようにしていた、との記述がある。

 

●庵野監督の配偶者、安野モヨコ氏とマリの類似性は多方面で指摘されている。