ゴジラと勝負した3人の男たち Numberより | 現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。

現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。

個人投資家向け収益不動産検索サイト e-不動産販売公式アカウントです。
マンション経営、アパート経営でお困りの大家さん、収益不動産購入に伴う銀行融資などの不動産投資相談をお受けします。最新の賃貸経営は日々進化しています。一緒に勉強しましょう。

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-松井

ゴジラと勝負した3人の男たち Numberより
http://number.bunshun.jp/articles/-/617363

他を圧する風格の強打者を打席に迎えても、逃げることなど考えなかった。
渾身の力で投げ込んだ白球は確かにスタンドの彼方まで運ばれたが、
真っ向勝負に悔いはない。敬遠伝説が生まれる前、正面からゴジラに挑み、
痛恨の一発を浴びた3人の投手が、20年の時を経てなお鮮明な記憶を語る。

ついにバットを振らぬまま対戦相手の校歌を聞いた。1992年8月16日、甲子園での明徳義塾高校戦、松井秀喜は、敬して遠ざけられた。怪物の評価を確定させた5打席連続四球。はなからストライクは放棄された。

あの「敬遠の夏」には、春、そして前の年の夏の伏線があった。ゴジラの進路に両手を広げて立ちはだかる少年がいた。堂々と勝負を仕掛ける。すると白い物体は外野の向こうへと運ばれた。松井、ホームラン! そうやって、苦く、切なく、歳月を経ると誇らしくもある青春の句点は打たれた。

以下、悔いが悔いでなかったストーリーである。あれから20年強、本塁打を許した者はそれぞれの世界に生きている。胸の底、そのまた底から「マ」と「ツ」と「イ」の響きが消えることはない。

JR常磐線、夕刻の石岡駅は蒸していた。近くの古いホテルにようやく喫茶スペースが見つかり、ややあって、ポロシャツ姿の背の高い人物は現れた。

 鷺沼智尉。旧姓の藁科と紹介すれば、あるいは思い出される高校野球ファンもおられるだろう。かつて茨城県立竜ヶ崎第一高校のエースを張った。'91年8月17日、一学年下の2年生、松井秀喜の2ランを浴びた。


「この季節は、いつも私が打たれてる映像が流れる」
「夏の甲子園の松井のホームランはそれしかないはずです。だから、この季節は、いつも私が打たれてる映像が流れて」

3回戦。8回表。2ストライクを奪い、サイン通りにフォークを落とすと、のちにニューヨーク・ヤンキースの一員となる四番打者の手は出ない。しかし球審の手も上がらなかった。「あそこで三振とれてればよかったんでしょうけど」。それならとシンカーを放る。「でも落ちなくてシュート気味に甘く入った」。右中間スタンドへ。一塁側応援席の中学時代の友と目が合った。「自分は笑ったんです。打たれちゃったよ、みたいな感じで」。3対4の惜敗。「惨めではなかったんですよ、大差をつけられたわけじゃないのでね」。飄々と言い切った。

竜ヶ崎一は、地域の伝統校だ。公立の普通のチームが、超の字の怪物を擁する私学によく挑んだ――。つい、そんな図式にあてはめたくなる。あの夏の関係は本当は違った。

そもそも松井秀喜についてさしたる認識がなかった。「顔は知ってました。ゴツゴツしていてね」。印象はそこにとどまる。もとより敬遠策などありえなかった。


$「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-松井秀樹

藁科は5連続敬遠を「いい作戦ですよね」と語った
マウンドの藁科その人も、おとなしい高校生とは一線を画していた。地元の中学野球部では名を知られ、幾つかの高校からも誘われた。学業成績もそんなに悪くない。なのに背を向けて「板金屋でアルバイトばかり」。そのまま就職のつもりだった。野球の素質を惜しむ周囲の勧めもあって、志願書提出期限の直前、竜ヶ崎一の定時制に滑り込んだ。

「進学しないと決めて髪を染めて、あわてて丸刈りにしても色は残ってました」

異色の甲子園投手の誕生である。そういえば星稜戦では本塁打を記録している。記念すべき「大会700号」。仲間に予言、賭けをしての一発だった。

当時の大洋などプロ球団が興味を寄せるも中央学院大学の野球部へ進む。定時制は4年通学だったので「卒業の年のブランクのつけで肩を痛めて」燃焼には至らない。卒業後は建設現場で働きながら、こつこつ公務員試験に臨み、やがて近郊の市役所勤務を果たす。


あの連続敬遠は、おそらく家の居間で見た
「いい作戦ですよね。有名な松井がそこにいて、打席のたびにヒット、ホームランを打っていたら私も使ってました」

「かたや国民栄誉賞ですもんね。私にもそのカケラくらいを」

北関東の抑揚が超然として憎めない。でも自身は勝負できて幸せだったのでは?

「どうなんでしょう。私の時は、一学年下でよく知らなかったので」

小学4年の作文に、将来の夢を、公務員と綴った。その通りになって、沈まぬシンカーの感触はしだいに遠い。「かたや国民栄誉賞ですもんね。私にもそのカケラくらいを」。笑い声とともに一瞬の交錯は永遠と化した。

その春から甲子園のラッキーゾーンは取り除かれた。松井秀喜は、すでに怪物性を定着させている。岩手県立宮古高校の横手投げ、元田尚伸は、広くなった外野を背に、ゴジラのアウトローを丹念につきながら、わずかな失投は振り向く空へ吸い込まれた。

'92年、3月27日、センバツ第1日、星稜の四番打者は、宮古との初戦で、2打席連続3ランを大会史に刻んだ。それは同年夏に発生する「事件」の明白な序章でもあった。


真っ向勝負した元田は当初「バカだ」と言われたが……
東横線の武蔵小杉駅。細身の元投手は、あまり変わらぬ体型と童顔で迎えにきてくれ、さっとタクシーをつかまえるや、取材の場所へと走らせた。「ま、エレクトロニクス関係の仕事とでも書いておいてください」。ビジネス人らしく言動のすべてが素早い。

30年ぶりに甲子園出場の宮古高は3対9で敗れている。単純計算では、松井を敬遠していれば勝負はもつれた。最速でも128km。「雑誌の記事によれば参加32校中でいちばん遅かった」体重65kgの主戦は、その後、巨人へ進む巨人と対峙、頭脳と術を駆使しながら4打数4安打7打点を許した。

「ずいぶん周囲から、バカだと言われましたよ。でも、あの事件があってからは、みんながコロっと変わって、お前は素晴らしい、って。人間は嫌だなあ、世の中はこわいなあ、そう思いましたよね」

事件とは、同じ年の夏の5打席連続敬遠を指す。このくだりを語って、口調はいっそう早くなった。

夏の甲子園は県大会で敗退、一般の入試で東北学院大学へ進んで、2年間は野球を続けて自主退部。学窓を去ると、電子部品関連の業務に一貫して携わり、白球の思い出からは距離を保ってきた。家庭を得て、いま小学3年の息子の少年野球チーム「篠原イーグルス」の練習指導に付き合い、ようやく、みずからの経験を言語化できるようになった。

◇   ◇   ◇

自分の制球力を信じてアウトローに投げ込んだ元田。だが相手は怪物だった。
豪快にスタンドに叩き込まれた2本塁打で投手としての限界を知ったという。
勢いに乗る松井と次に対戦したのは、プロ注目の右腕・堀越の山本幸正。
故障を抱えたエースは本来の球威ではない中、配球の妙で翻弄したが……。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
海外展開に伴い協力会社を募集します。語学力があれば起業を考えている方でも大歓迎!…お勤めしながらの週末起業でも十分可能かと……気軽にお問合せ下さい。…詳しくは⇒http://ameblo.jp/e-fh/entry-10863926030.html

当社は、一棟マンション、一棟アパートを専門に取り扱う不動産会社です。
[twittre http://twitter.com/e_fh ]
[facebookフアンページ http://www.facebook.com/efh.toushi ]
[e-不動産販売 検索サイト http://www.e-fudousanhanbai.com ]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー