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$「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-毛利元就
毛利元就(1497年-1571年)

戦上手すぎる戦国武将、毛利元就

戦国最強武将は毛利元就・・その理由として元就は兵力差で著しく劣る絶望的な戦いを3度も勝利しています。

その一
元就の初陣、「有田中井手(ありたなかいで)の戦い」です。中国地方に覇を唱える山口の大内義興は、10代将軍の足利義稙(よしたね)と管領細川高国の政権を支えるため長期間京都に滞在していました。

これを好機として永正14(1517)年、安芸随一の有力武将、佐東銀山城(広島市)の武田元繁は独立を画策・・周囲の土地に侵攻し北上して大内方の有田城を包囲しました。

2歳の当主、幸松丸の後見役を務めていた元就(20歳)は吉川の援軍を得て千人ほどの兵力で有田城の救援(後詰め、といいます)に向かいます。

対する武田方は4千~5千人。又打川(山県郡北広島町)をはさんでの攻防の末、一斉に放たれた毛利隊の弓矢が渡河を強行しようとした元繁を射貫きました・・大将を失った武田勢は崩壊し、毛利の名は一躍有名になります。


その二
吉田郡山城の戦いです・・毛利氏は有田中井手の戦いの後、いったん大内家との関係を解消して山陰の雄、尼子氏の支配下に入った。

ところが幸松丸が病没して元就が正式に家督を継ぐと尼子と縁切りし再び大内家と結んだのです・・そうした経緯もあって天文9(1540)年、尼子詮久(あきひさ)率いる3万の尼子軍が毛利家の本拠地、吉田郡山城(安芸高田市)を包囲します。

元就は3千の兵で籠城し、巧みに用兵して3カ月を耐え抜きました・・そこに大内義隆が派遣した2万の陶隆房(すえたかふさ)の軍勢が到着し尼子方は敗走したのです・・この戦いに勝利したことで、毛利氏は安芸を代表する国人として認められるようになります。


その三
いよいよ厳島の戦いです・・天文20(1551)年、大内義隆が重臣の陶隆房の謀反によって殺害されました・・元就は当初、晴賢(はるかた)と改名した陶と協力し、佐東銀山城など現在の広島市周辺を占領、その地域の支配権を掌握しました・・けれどもやがて両者は決別し、存亡を賭けて戦うことになります。

しかし陶晴賢が動員できる軍勢は3万余、対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4千~5千・・まともに戦えば勝算はありません。

そこでいくつもの謀略を仕掛け、元就は陶軍の切り崩しを図っていきます・・業を煮やした晴賢は弘治元(1555)年、自身で2万の大軍を率いて山口を出発、交通と経済の要衝である厳島を制圧するべく、この小島に上陸しました。

これを好機とみた元就は奇襲を仕掛け、大軍ゆえに狭い島内で身動きの取れない陶軍を大いに破り、晴賢を自刃に追い込んだのです。

この戦いによって元就は山陽道の盟主の地位を手に入れます・・やがて彼は尼子をも降して中国地方をまとめあげました・・3度の圧倒的に不利な戦いを勝ち抜き、一介の安芸の国人から大大名に成り上がった元就こそは、戦国随一の戦上手といえるように思えるのですがいかがでしょうか。


【プロフィル】
本郷和人 東大史料編纂所准教授・・昭和35年、東京都生まれ・・東大文学部卒、専門は日本中世史。



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