
NHK 検索deゴー! とっておきの世界遺産「戦争と平和」 悲劇を語り継ぐ広島原爆ドーム
8月6日は広島に原爆が投下された日です・・66年前の悲劇を被曝した当時の姿で伝えている建物があります。
広島平和記念公園の原爆ドームは人類に戦争の悲劇を訴える世界遺産です・・そこには広島で被爆した人の様々な思いが込められています。

広島県産業奨励館、大正3年に完成したドーム型の屋根が特徴の洋館でした・・地元の特産品の展示会や美術展が開かれていました。

広島の産業と文化を担った建物は広島市民の誇りでした・・モダンな洋館を無残な姿に変えたのは原子爆弾(リトルボーイ)、産業奨励館の間近、南東160mの位置に投下されたのです。
昭和20年8月6日、午前8時15分、B-29爆撃機エノラ・ゲイよりリトルボーイが投下されます・・爆風と熱線を浴び産業奨励間は全焼、しかし爆風がほぼ上から垂直に働いたため奇跡的に崩壊を免れます。
かろうじて中心部が残った建物は原爆ドームの名で呼ばれるようになりました・・戦後復興に向けて焼け野原から広島は歩み始めました。

しかし残骸となった原爆ドームは放置されたまま時を止めていました・・建物の劣化は進み被爆から10年経った頃から崩壊の危機が叫ばれ始めます。
保存工事は不可欠、しかし当時は、原爆の記憶とともに消えて欲しいという声もありました・・保存か?、撤去か?・・原爆ドームは岐路に立たされたのです。

事態を動かしたのは一人の女子高生が残した日記・・1歳の時に被爆し白血病で亡くなった楮山ヒロコさん(1944-1960)・・原爆の悲劇が過去のものとなりつつある世相を憂いてこんな思いを綴っていました。
「昭和34年8月6日、20世紀以降はあの痛々しい産業奨励館だけがいつまでもあの恐ろしい原爆を世に訴えてくれるだろう」
楮山ヒロコさんの死後、市民団体、広島折鶴の会の子供たちが日記を読んで保存に向けた募金を始めます・・ヒロコさんの言葉を広め原爆ドーム保存の意義を訴えたのです。
こうした取り組みに広島市も保存の方向に傾いて行ったのです・・被爆から21年、ついに原爆ドームの永久保存が決定します。
1967年、原爆ドームの崩壊を食い止める工事が始まります・・残骸もまま風雨に晒された建物はいたるところひび割れていました・・それで特殊な接着剤が壁や柱の内側に注入されました。
4ヶ月にわたる工事により、原爆ドームは危機を免れます・・その後、大規模な保存工事は2度行われました・・被曝の瞬間を可能な限りとどめようと普通の耕治とは違う心構えが必要でした。
施工会社 清水建設 第3回保存工事 現場監督 丹田征治さん
「オリジナルには触れない・・全てのものに接触してはいけない・・下のレンガひとつも動かしてはいけない・・ですからそれらを気づかって足場を組み立てるのに苦労した記憶があります」
「壁の洗浄も洗いすぎない技術が求められました・・歴史の重さを伝える事に原爆ドームの価値があるからです」
施工会社 清水建設 第2回保存工事 現場監督 中村義則さん
「工事自体の考え方が違いました・・これしかないわけですからね・・最初に被曝して残っている建物が・・貴重な遺産だと思います」
戦場カメラマン 渡部陽一
「世界を回って日本の事なにか知っていますかといろいろな国でよく聞きます・・その時に帰ってくる言葉が広島、長崎という言葉なんです・・世界中の人たちが広島、長崎の現場を自分の目で見てみたいという声を何度も聞きました・・そこに残されている原爆ドーム、世界中の人たちにも声は届いて行くとおもいます」
■なんか原爆ドーム保存にもドラマがあったんですね・・これは知っておかなきゃなりませんね。
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