フランス大統領選まで十日あまり。

 

盤石の支持基盤を誇るマリーヌ・ルペン。

 

左派でも右派でもないという触れ込みで左右両陣営の反ルペン票の受け皿となっているエマニュエル・マクロンには、果たして大統領としての器があるのかいささか心許ない。

 

ルペンとマクロンの対決が、トランプとヒラリーのそれの二番煎じに終わる可能性は濃厚である。

 

そんななか、いまひとりのポピュリストである左派のジャン=リュック・メランション(いわばフランスのバーニー・サンダース的な役どころ)が事前調査でじわじわと支持率を伸ばしているという(ともに24%前後の支持率のルペンとマクロンにたいして18%強)。

 

ことほどさようにポピュリズムが前景化しているきょうこのごろ。

 

ポピュリズムの罠は、そもそも「民衆」という観念のヤヌス的な実体に由来している。

 

ジョルジョ・アガンベンによれば、民衆ということばは、いっぽうでは政治的主体としてまったきアイデンティティをみとめられた者の集合を指し、他方ではそのようなアイデンティティを剥奪された、排除された者たちの断片的な群れを指す。

 

民衆ということばがあるばあいには前者のいみで用いられ、べつの場合には後者のいみで用いられるといったことではかならずしもない。

 

民衆はそのうちに、れっきとした政治的実存(ゾーエー)とたんなる「剥き出しの生」(ビオス)との内的分裂(「根本的な生政治的亀裂」)を内包している。

 

民衆を分断するこの「内戦」をマルクスは階級闘争と呼んだ。

 

この内的分裂は古代ローマでは「ポプルス」と「プレブス」の分割として法的に認められており、中世においても職業的な階級制度として公然のものでありつづけた。

 

人民を唯一の主権者と規定したフランス革命いらい、この内的分裂はスキャンダルとして、矛盾として現れる。

 

貧困や排除がいまや経済的・社会的な範疇から政治的な範疇へと移行する。

 

そしてモダニティーとは、この分裂、この矛盾を繕うプロジェクトの謂いである。

 

ナチスのユダヤ人絶滅は、あるいみでこのプロジェクトの究極的な完遂であった。

 

それは政治的実存としての身分を保障されたドイツの民衆が、国民というカテゴリーに統合されないユダヤ人という「剥き出しの」民衆を絶滅させることで、民衆の内的分裂を消し去ろうとする試みにほかならなかった。

 

民衆の内的分裂は、敵/友の分裂よりも原初的な分裂であり、あらゆる紛争よりも根源的な分裂である。

 

ジャック・ランシエールもまた民衆は根源的な分裂を被っていると考える。

 

ランシエールはそれを「感性的なものの分割」と呼ぶ。

 

民衆は共同体の一員でありながら「市民」とは別のことばを話す動物とみなされ、「市民」には数え入れられることのないひとびとである。

 

そのいみで民衆はまさに内的な(内向きの)排除を被っている。

 

それは共同体のエコノミーに「計算違い」を来す厄介な要素である。

 

「民衆とは、富であれ徳であれいかなる明確な資格ももたない人々、それにもかかわらずそうした資格をもつひとびととおなじ自由が認められている人々、このようなひとびとの不明確な塊り(masse)にほかならない」。

 

逆説的なことながら、民衆とは、自由であるという、あらゆる階級に共通に認められている身分をみずからに固有の身分として引き受ける階級のことである。

 

民衆は「何ものでもないひとびと」として存在を認められている。民主主義はこのような「計算間違い」を内包している。

 

「かれらはたんに、政治そのものを構成する間違いやねじれである」。

 

マルクスがまさにプロレタリアートを「合理主義の非合理」と形容したことを想起しよう。

 

このような内的排除をランシエールは社会的な分断に先立つ「感性的な分割」と呼んでいる。

 

言葉を話す身体と、たんに快と苦痛を訴えるいななきを発する身体との分割である。この分割は、それが発話の聴取可能性に応じたそれであるかぎりで「感性的」と表現される。

 

ランシエールにとって、「政治」はこの分割をずらし、そこに「不和」を生じさせる営為としてある。

 

「身体をかつて割り当てられてきた場所からずらし」「いままで見られる場をもたなかったものを見えるようにし、音だけがあったところに言説が聞こえるように」することで、民主主義の「計算間違い」を明るみにさらすことだ。

 

ランシエールにとって、そのような「政治」の典型は、女性に参政権がなかった1849年に選挙に立候補したジャンヌ・ドワロンの行為であるということになる。

 

というわけで、「感性的なものの分割」がずらされるとき、そこに民衆が出現する。

 

実体的に出現するというよりは、いわばその「ずれ」そのものとして出現するのだ。

 

ジル・ドゥルーズにとって、やはり民衆はその全体性を剥奪されている。ドゥルーズによれば、民衆はすぐれて「マイナー」なものである。カフカの言語のように、それはひとつの言語のなかにもうひとつのマイナーな言語を穿つことでそのはざまに浮かび上がるなにものかである。

 

イタリアに民衆をもたらしたのはダンテの言語であり、ドイツに民衆をもたらしたのはルターの言語である。そのように、文学あるいは芸術は、まだ存在していない「来るべき民衆」に聴き取らせるべく、既成の言葉を試練にかけ、そのあらたな使用法を発明しなければならないのだ。

 

そのいみでは民衆とはすぐれて言語の分裂において存在している。

 

アラン・バディウは、プロレタリアートが本質的にノマドであるとするマルクスの言(「プロレタリアートは祖国をもたない」)を引き、国家から切り離されたマイノリティとして民衆は政治的革新の主体たり得ると述べている。

 

「民衆」が国家を表す形容詞と結びついてひとつの全体へと統合されるとき(“フランス人民”)、それはよういに全体主義へと反転し得る。