ここで若き忍熊皇子の▼疑心暗鬼▼が頭をもたげ始めた。
もしかしたら、皇后が自分の子供を皇太子、天皇にするのではないか
・・・
自分は退けられるのではないか・・・
(明治維新後の西郷隆盛様と大久保利通の状況に似てきた・・・ 真っ当な神々 vs 蛇神の関係)
しかし、当の神功皇后様には、そんな考えは微塵も無かったよう・・・
忍熊皇子と香坂皇子は、紛れも無く、仲哀天皇様の皇子であり、特に忍熊皇子には若狭湾方面を任されていて実績もあった――
信頼していたからこそ、2人の皇子達と重臣達を中心に、朝廷と都を任せて、自らは仲哀天皇様が待つ危険な九州北部=筑紫へ旅立って行った。
生まれたばかりの皇子-後の応神天皇様とはいえ、まだ赤ん坊・・・ そのまま無事成長できるかも保障はどこにも無かった・・・
神功皇后様にとっては、仲哀天皇様-仮陵
本陵(宮地嶽神社-裏)に納め、早く都に戻って新しい体制を整えることが最優先だった。
※皇子達はまだ若かった・・・ それが残された皇后の役目と認識されていた。
多分、予定では~
まず忍熊皇子を皇太子に格上げして、時期を見て天皇に即位させる予定だったよう・・・
(優秀だったかもしれないが、若すぎた皇子、、、更にバックは蛇神系だった。。。 イザとなって本性が露呈してしまった・・・ )
ここで神功皇后様と忍熊皇子~ 両者の思惑がズレ始めた・・・
疑心暗鬼の忍熊皇子が、凱旋してくる途中の神功皇后様と赤ん坊の皇子を打つ計画を練り始めた。
皇子による『皇后への反乱計画』。 ( ・・・通常はあり得ない設定なのだが。。。
)
そして兄の香坂皇子を巻き込んだ。
朝廷の一将軍だった★五十狭茅宿禰★(イサチ-ノ-スクネ)にも忍熊皇子からの指示命令が下った。
〔参考〕イサチ=================
※この「五十狭茅」(イサチ) or 「伊佐知」とは、どうも古地名、その地域の特性を意味しているよう。
※このような漢字を当て字したのは、約400年後のこと――
同じ名称が大和武尊様の父親-垂仁天皇にも使われている。
●活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこ-いさち-のすめらみこと) - 『日本書紀』
●活目天皇(いくめ-のすめらみこと) - 『日本書紀』
★伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこ-いさち-のみこと) - 『古事記』
★伊久米天皇 - 『常陸国風土記』
「イクメ」がファースト・ネーム、「イサチ」が皇子時代に任されていた土地のよう~
そして「五十」は敢えて“イソ”とは読まない。「イ」である。 ワザと「イ」と読むよう。
「十」を付けることで、「五」の意味を強調させているよう。
五十狭茅宿禰とは、「五十狭茅」(イサチ)の地を任されて領地として持っていた将軍。
漢字を意味を文字通り読めば・・・
当時必需品だった茅葺屋根の「茅」~ それが十分に生い茂っていて収穫できた地域。
それも都の割りと近く。
==========================
(もしかしたら★五十狭茅宿禰★は忍熊皇子の焦り、叛心に気付いて説得したかもしれない・・・ )
結果、臣下、将軍として、★五十狭茅宿禰★は皇太子有力候補-忍熊皇子に従った・・・
忍熊皇子は、淡路島に面した狭い海峡の処で、淡路島と本土側の両方から神功皇后様の船団を挟み撃ちにする計画を立てた。
おおよそ、このような布陣配置~計画で
~
現-「五色塚古墳」の場所に、仲哀天皇様の為と称して、古墳に見せかけた陣地を築き始めた。
『日本書紀』の伝える通り~ 表向きは“仲哀天皇様の古墳”を築くと偽って~
※だから、「古墳」としては完成しなかった。
完成したのは「古墳」に見せかけた陣地――
天皇陵なので、通常は「前方後円墳」を築く。
※皇后、皇子などの皇族は、よほどの事、異例が生じない限り「前方後円墳」は無理――
「円墳」など。
仲哀天皇様時代の都は、先代の成務天皇(大和武尊様の晩年)を引き継がれたようなので、大津宮だったよう~ と述べていた。
伝承では、景行天皇の晩年に大和盆地
大津へ遷都されたよう。
この遷都もキチンとステップを踏まれて、その結果として選択されていた。
( 第11代-垂仁天皇時代)
※バックは、当時の天照大御神様-ヒミコ様
(父親の第10代-祟神天皇は、神武天皇様の御分魂。 魔界-▲三輪山 の攻撃を激しく受けた時代・・・ 『伊勢神宮-計画』のキッカケとなった時代。。。 )
皇子-五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ-ノミコト)様による東征。
弟皇子-大和武尊様による西征。 (特に熊襲征伐)
( 大和武尊様の天皇時代=第12代-景行天皇時代)
九州御巡幸
東国御巡幸(少なくとも関東までは行かれていた・・・ 弟橘姫様水難の件で―― )
そして、景行天皇(=成務天皇)から引き継がれた仲哀天皇様の時代~
当時の東国と西国経営・政策上、その中間点に位置する大津宮はまだ必要だった。
(西征・東征時代は垂仁天皇時代だったので、都は大和盆地の方に置かれていた。)
実施された時から、約400年ほど後世に編纂された『古事記』・『日本書紀』では、その内容に食い違いがあるが致し方ない・・・
※皇子-大和武尊様が天皇に即位された景行天皇による九州御巡幸図 (※参考程度)
九州北部-筑紫への渡来者達、新羅の賊跋扈による不穏な情勢への対策の為、
都を留守にし、(山口県下関市)長門の行宮や筑紫-香椎行宮に滞在し始めた。
44歳くらいで天皇に即位された仲哀天皇様には別の場所に遷都する余裕は無かった。
よって、本来なら、陵を築くのなら大津付近~琵琶湖周辺一帯が自然。
※「五色塚古墳」-播磨、淡路島の目の前~ など異例であり、不自然だった・・・
(だから、『日本書紀』にて、“ニセの古墳”と記録されて当然だった―― )
そこに埋葬されたのは、仲哀天皇様ではなく、別の人間
だった。
そして、古墳として完成させて、その別の人間を埋葬させたのが神功皇后様だった。
(→その11に続く)