いくつか残された物件を紹介するが、その前に・・・
かつての張政様のように、宮崎平野を俯瞰された時に、
特に、「矢印」台地の先端-矢じり三角形の位置に中心 が置かれた場合、
どこを押さえて行けば中心の“守り”が固められるか想像してもらいたい。
可能な限り、当時の地形、「矢じり三角形」の周りが海~入江になっていたことを
想像しながら、守りのポイントはどの辺りなのか ・・・
手書きなので、見にくいのはご容赦・・・ m(_ _ )m
〔参考 : 手書きの宮崎平野〕 ※▲尾鈴山-頂上付近から眺めた状況にて――
海神族、海人族の地域なら、彼らはどのような配置を執ったか ・・・
既に分かっていることながら、大淀川の河口、一ツ瀬川の河口は、もう少し上流にあった。
現在の河口は湾、入江のように拡がっていた。
参考までに、簡単に、最低でも、 どこを押さえれば良いか示しておく。
※下記地図、赤マル枠の箇所。
一ツ瀬川方面 : 三角形の頂点~西都市役所~「西都原古墳群」のエリア。
大淀川方面 : 大淀川の急カーブの先、三角形の頂点~「宮崎神宮」・「皇宮神社」のエリア。
※この2ヶ所を押さえれば、“守りの司令塔”になる。
※もちろん、恐らく女王ヒミコ様の背後の佐土原城-天守台跡の頂上にも見張り台は置かれていただろう・・・
そして~
女王ヒミコ様の南側~ 大淀川の急カーブ方面を担われていたのが東征前の神武天皇様。
女王ヒミコ様の北側~ 一ツ瀬川流域と西都原古墳群方面を担われていたのがウガヤフキアエズ命様。
( 相応しい有名な物件が今も手掛かりとして残されている~ )
後は、このポイントを中心として、海、入江を見渡せる場所に見張り台、砦のようなものが置かれていった。
そして、遥か後世に忘れ去られて、神社・寺に化けていった・・・
※「佐野原聖地」+「佐野原神社」の周囲~ ▲矢じり三角形▲の周囲には取り囲むような形で、今も各中小神社・寺点在している。 ヘ(・o・Ξ・o・)ヘ
(大雑把でも分かるように拾い出してみた。 大きい印は有名処。 茶色■は観音堂~ )
(当然、この中には意味の無い物件も混じっていよう・・・ )
これは、多くが元は見張り台や砦、(今で云う)役所のような何かに使われていた館跡のよう・・・
(それが奈良時代以降~ 都から遠く離れた南九州なので、恐らく平安時代になってから神社や寺と化していった・・・ )
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それ以前に、皇祖-神武天皇様の故郷、出発の地―― として記念すべき何か、遥拝所のようなモノを残した人々は僅かながらいた。
神武天皇様の孫の阿蘇-健磐龍命神様。
阿蘇国造の祖として九州に赴任されていた。
(有名な『阿蘇大神界』-阿蘇神社、またスピリチュアルで悪名高かった幣立神社の本当の神様)
※「阿蘇神社」は、先の熊本地震で倒壊してしまったことでも有名になってしまった・・・
景行天皇(大和武尊)様
若い頃~皇子時代の「西征」と、天皇に即位されての九州巡幸~ 2度九州に来られていた。
特に、景行天皇時代の☆九州巡幸☆は、神武天皇様の故郷、御役目に就かれていた土地が日向地方だった記憶がまだ残されていたので、御自分でテコ入れされ、かなり滞在されていた。
各地方で御妃 を迎えられ、その子供が長、国造を任されたよう。
(・・・もう手が回らないが、日向、日南、都城・他~ その手掛かりのようなものはあった。)
※最近の典型的な事例~ 「白鳥神社」(えびの市)の球磨姫様。
これは、当時~ 古代の日本全体の最善と思われた統治政策の一環。
(二度と国内がバラバラにならないように―― という想いから。)
同じ事は、現代でも云える。 この日本国内が真っ二つ、or バラバラに陥った時、「日本」という国の歴史は終わる・・・
幕末維新の時も、危うく陥りかけた(=維新政府 vs 奥羽列藩同盟)が乗り越えた歴史があった。
(この時、危うく北海道は by 会津藩によって、 プロイセン=現-ドイツ に売却されかかった・・・ )
応神天皇様
母親-神功皇后様の御一族=息長氏の祖先は、渡来されて、九州北部の現-香春町~宇佐付近に定住されて開拓されていた。
中興の祖、現-香春大姫様
※▲香春岳(宇佐大神界内-福岡県田川郡香春町)の御眷属の皆様~
〔石凝姥(イシコリドメ)命様・金山姫神様・金山彦神様+ムカデ軍団〕
秦氏とも繋がりが深かった。
(遥か彼方の故郷は大陸の西域~中東付近。 里帰り組だった。)
神功皇后様の生まれる前か、幼少の頃には、御一族は琵琶湖-湖畔に移住されていた。
応神天皇様の政策の中には、馴染みの深かった西日本のテコ入れがあった。
(元々、誕生の地は、現在の福岡市付近だったので当然かもしれないが・・・ 「三韓征伐」からの帰国直後―― )
本当は、日本に襲撃してきた 新羅の賊の掃討と、元々~出雲帝国以来、大和朝廷の配下にあった新羅-県への支援、テコ入れの為だった。
(新羅-県そのものと戦った訳ではなかった。)
※古代から、お隣~(朝鮮半島)からは何度も繰り返し、繰り返し賊徒が襲撃してきていた。
(九州北部、山口県は、半島賊徒共の襲撃の絶好のカモにされていた・・・ )
※神功皇后様の夫君-仲哀天皇様も山口県の行宮に滞在中に襲撃を受けて撃退されていた・・・
堪忍袋の尾が切れたので、とうとう賊退治の為に、 大和の皇后 を呼び寄せたのが「三韓征伐」の始まり――
( ・・・ 大和の皇后って、もちろん~ 神功皇后様のこと。 奥様に退治させようという腹だった。 皇后=奥様はアマゾネスのような人 だったから・・・ 戦上手―― )
(→その92に続く)