高市皇子 : 天武天皇 宗像徳善※(宗像族の長)の娘との間の子。
天武天皇の長男。
「壬申の乱」の時の軍の指揮官。
※皇位継承-候補で、第3位は“長男”だった。
(母親が皇族ではなかった為とされている・・・ )
※宗像徳善は、宗像氏でも有名な長のようで、宮地嶽神社-本殿背後の古墳の主では ・・・ と見なされている。
( 残念ながら、古墳の主は、神功皇后様の夫君-仲哀天皇様 )
大海人皇子が百済救援か、本土防衛施策の為に九州筑紫に滞在していた頃に宗像氏の娘と出逢って、大和に連れて行ったよう。
(高市皇子は大和で生まれたと記録されている。)
( ( ̄_ ̄ i) コチラの皇子も全く ~ 興味もヘッタクレもなく、知らん・・・・・・ )
(-。-;)/ 記録には残されていないが・・・
中央集権的な政治をされた天武天皇の直下で、“太政大臣”のような役目に就かれていた他・・・・・・
古代の大乱-「壬申の乱、、、しかも皇室が真っ二つに分かれて戦ったので、その後は~~~必然的に“中央集権的”にならざるを得ない・・・
※天武天皇時代には、まだ「太政大臣」という役職は登場しない。
(登場するのは、次の持統天皇より~ )
「壬申の乱」の後は “目付け” ヾ(▼ヘ▼;) のような役目に就かれていた。
(現代なら、さしずめ情報機関、治安機関のトップのような )
草壁皇子が早世したので、母親-鵜野讃良(ウノノサララ or ウノノササラ)皇后が天皇に即位して持統天皇へ~
(※画像は『気ままに何処でも万葉集!~ 』より)
※里中 満智子-女史の『天上の虹』の世界の登場 ~
(因みに、自分は一度も見たことがない。 テーマに興味が無い、趣味も合わなかったので・・・ 各皇子などを画像検索していたら、、、『天上の虹』がやたらと出て来た・・・ (^▽^;) )
高市皇子は、この持統天皇の下で 太政大臣 に抜擢されて腕を振るった。
そして・・・・・・
“目付け”-高市皇子の下で▼陰▼として動いていた、情勢チェックをしていたのが・・・
「柿本人麻呂」
特に持統天皇-時代に名を残した有名な歌人の「柿本人麻呂」。 (´0ノ`*)
「柿本人麻呂」という人物は正確な記録が残されていないので定かではないが、
表の顔は下級官吏で歌人だが、裏の顔は高市皇子の懐刀で、情報収集者だった。
※もちろん▼大津皇子の事件▼にも関わっていた。 ヾ(▼ヘ▼;)
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高市皇子の子が、「長屋王の変」※で有名な長屋王。
※「長屋王の変」 : 藤原不比等様により抜擢され、また不比等様の娘を妃にしていたが、義理の兄弟-藤原4兄弟と対立するようになり、陥れらて刑死(自害)させられた事件。
(妃の藤原長娥子は不比等様の娘ということで助命、残りの一族は妃・子含めて抹殺・・・
まるで「山背大兄皇子の変」のセカンド・バージョンのような事件。。。 (゜д゜;) )
こうも云えるかもしれない・・・・・・
父-高市皇子は天武天皇の長男であり、早くから軍の指揮、目付け、太政官のような役目に就いて活躍していた。
(天武天皇の政治の中心にいたかもしれない~ )
そして、次の持統天皇の時代には、正式に太政大臣となって天皇の右腕になっていた。
だから、長屋王もそれを目指したが、嫉妬した藤原4兄弟に横取りされてしまった。
※飛鳥時代の厩戸皇子の皇子、推古天皇の後継者の一人だった山背大兄皇子は、蘇我入鹿に横取りされて、一族~斑鳩寺で首をくくる羽目になって全滅した・・・
(事件の構造はよく似ているようだが・・・・・・ (-""-;) )
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他に、皇子ではないが、皇女として十市皇女(トオチ-ノ-ヒメミコ)。
大海人皇子 額田王様の娘。
天智天皇の皇子、「壬申の乱」で敗死した大友皇子の妃になっていた。
「壬申の乱」後は、母親の額田王様と共に、天武天皇の飛鳥の都に戻っていた。
十市皇女は悲嘆にくれ、父-天武天皇を恨みながら飛鳥で自害・・・ (x_x;)
(記録には、ただ“急死した”、天武天皇は大いに取り乱し、新しい斎宮に出むく行事を取りやめた・・・ という内容しか残されていない。)
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大津皇子の“謀反”とされるまでの経緯・・・ (・・;)
天武天皇が崩御して、殯(もがり)が始まった。 (。-人-。)
※日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。
ちょうど、今上天皇陛下の「殯」についての御言葉があった。
―2016年(平成28年)8月8日―
『更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が1年間続きます。
その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。』
殯(もがり)に関わる人々、遺族は、殆ど謹慎処分に似た様な日々を送らなければならない。
勝手に出かけること、遠出、旅などは御法度 ・・・ 連日、物忌みの日々~
(。-人-。) (_ _。) (:_;) Oo。。( ̄¬ ̄*)
(通説と異なり)天武天皇は皇太子を指名しないで崩御されていた。。。
大津皇子の実の姉-大来皇女は、伊勢で斎王をしていた。
大津皇子は―“自分が皇太子~天皇になるべく皇后・皇子達に奏上する”― 旨の相談をしに伊勢に行ったらしい・・・ “禁を破って”
(大津皇子の性格、バックの御性格から、自分が身を引くことなどあり得なかった。)
斎王-大来皇女は弟の身の危険を感じて、早々に弟を大和へ送り返された。
その殯(もがり)の禁を破って伊勢まで行った動きを、「柿本人麻呂」、或いはその配下に掴まれてしまい、その報告が目付けの高市皇子へ~
高市皇子は草壁皇子、他の皇子達を集めて、対処を話し合った。
天皇の殯(もがり)を破って勝手に動くことは、例え皇族、皇子ですら厳禁だったよう。
(現代の一般市民感覚では、天皇の殯などチンプンカンプンでしかないが・・・ (@_@) )
(→その37に続く)