世間は クリスマスを目前 ~ というのに、、、遥か異国の砂漠への旅・・・
※タリム盆地=タクラマカン砂漠
( もちろんクリスマス・ケーキもチョコ・モンブラン もある訳ない・・・ 広大な砂の世界と砂嵐、点在するオアシス程度・・・ )
誰か国際宅配 or アマゾンででも急送してくれるのか
無理無理・・・ ここは『西遊記』の世界・・・
“ケーキ”さえも狙う妖魔 ・盗賊 がどこにいるか分かったものではない・・・
(途中で必ず襲われて喰われてしまうがオチ・・・ ( ̄_ ̄ i) )
〔崑崙山脈〕
〔タリム盆地-タクラマカン砂漠〕 ※敦煌の西側~ロプノール湖(跡)
〔砂嵐〕
〔砂漠の世界のオアシス〕
+プラス余計なもの・・・ (現代ならではの)46回くらいやった地上-核実験場も
(-"-;A
もちろん、恐らくだ~れも興味も関心のカケラもないだろうから、少々予備知識として地理・歴史情報をおさらいして、漠然とでも把握しておいた方が良さそう。
名付けて~ クリスマス特別補修-『シルクロードの地理・歴史』のお時間。
(途中で休講の可能性もアリ・・・ )
(このMapの中に、支那大陸~西域、北方の白虎・朱雀・玄武が隠れている)
※青龍は大陸にはナシ――
各、世界の地方神界としてバラバラにされた支那大陸-大陸出雲神界、インド神界、エジプト神界~などが再び密接に繋がるだろうから――
『西遊記』自体は明代の奇書(ファンタジー書)。
そのモデルとなったのが玄奘三蔵法師のインドへの陸路の旅 ~
この旅の記録を地誌-『大唐西域記』として著した。 (・・;)
※玄奘三蔵法師 : 西暦602年 -664年 (日本なら飛鳥時代あたりか~ )
〔玄奘三蔵法師が辿ったルートとされているもの〕
起点は、 当時の唐の都-長安 (現-西安)。
ここは支那大陸の西方~ 西域への玄関辺りに位置。
※有名な敦煌を経由して天山山脈-北路に至り、途中から南路に変更してインド地方へ~
※オアシス都市-サマルカンドや、インドのナーランダ-(寺院)などは名称くらい記憶していても。
(「サマルカンド」周辺のオアシス都市(現-キルギス共和国など)は、玄宗皇帝、楊貴妃様の時代にも関わってくるので。)
ヘ(・o・Ξ・o・)ヘ
従来の『お経』の翻訳版内容が創作追加の捏造なども一部に散見され、杜撰で信頼性が低かったので、ワザワザ~ インドの寺院・学校にまで確認しに行ったことが動機。
これは後世、平安時代初期に、最澄様が唐に渡った動機とほぼ同じ。
日本にもたらされた『お経』をどんなに調べても、全体としてまとまりが無く、分からない・・・ 納得できない。 ヽ((◎д◎ ))ゝ
奈良の南都六宗などは、頭デッカチ+特権化して堕ちていたので (  ̄っ ̄) ( ̄へ  ̄ 凸、最澄様にとっては省みられなかった。。。 A=´、`=)ゞ
※要は~ 本(お経)だけでは分からないから、自分で確認しに行った。 (;´▽`A``
しかし、当時は唐王朝が開かれて間もない頃、大陸の大動乱がようやく収束しかけていた頃・・・ A=´、`=)ゞ
国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかった。
玄奘は国禁を犯して密かに出国、役人の監視を逃れながら旅に出た。
僧-玄奘は、「法」を犯して密出国・・・ (犯罪者になった。。。 )
※現代で、世界史でそれを知っても、恐らく“犯罪者”には結びつかないでしょう・・・
⇒何故か?・・・ (その感覚・実感が無いから~ )
※「法」とは守るだけではなく、時として破るもの―― とはこの事。
(多分・・・ としか云い様がないが、バックに天・神界が付いたら、やっても構わない、正々堂々とやれ♪~ ということなのかも。 相談する相手は、⇒我が心のみ―― とか。 命がけであることは云うまでもないが―― )
『明治維新』などは、「法」無視の“国家転覆-大事業”~ その延長線上に現代日本はある。
現代なら・・・・・・ ▼テロ行為▼と非難されるかもしれない。
『明治維新』という▼テロ行為(?)▼の延長線上に、現代の繁栄と平和(!?)の民主主義国家-日本がある。
(まるで・・・ ジョークの様な文章みたいだが・・・ )
現代人は誰もその当事者ではなく、実感も無いから、誰もそんなことは思いもしない・・・
「法」を無視して、(江戸幕府)国家転覆を行った~ その遥か延長線上に“今”があるなど・・・ (。-人-。)
(用語の使い方、表現の仕方も関係あるかもしれない。 支那中国~戦勝国-国連安保理の常任理事国などは、盛んにこの“用語”、“表現”の手法を駆使して、CM並み世界に流布して、戦後世界に君臨している・・・ 殆ど、“騙し”のテクニックに近い―― )
その僧-玄奘~
途中の国の王が熱心な仏教徒であったことも幸いして、玄奘を金銭面 で援助した。
玄奘は西域の(ソグド?)商人らに混じって「天山北路」の途中から峠を越えて「天山南路」へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒマラヤ山脈を越えて→→→インドに至った。
※▲天山山脈▲の北路と南路の意。 (タクラマカン砂漠の北壁が▲天山山脈▲)
インド-「ナーランダ大学」では『唯識』を学び、また各地の仏跡を巡拝した。
※『唯識』 : 極論~ 一言で述べてしまえば、仏教の“引き寄せの法則”みたいなもの。
(自分の心が世界を創り出しているという、深層心理・意識体系~ )
但し、(恐らく)『唯識』は全体の1/4しかカバーできないかもしれない。
玄奘は西暦645年に、唐の都-長安に帰還した。 (日本なら★大化の改新★の年)
時は唐王朝2代目-太宗の時代になっていた。
( 「貞観の治」と呼ばれる、世がようやく治まって、高度成長期のようなものを迎えようとしていた時代~ )
※ 古典-『貞観政要』などが有名。
(今でも書店のビジネス・コーナーにいろいろと並んでいる ~ (・・;) )
※但し、編纂者、解説者が帝王になれたためしはナイ・・・ (゚ー゚;
※尚、次の唐王朝3代目-高宗は凡庸で、この時、皇后の武后(後の則天武后)に乗っ取られて、唐は一時期消えて、「武周」が興された。 (* ̄Oノ ̄*)
※ここで、その則天武后とやらを少し補足~
(玄奘三蔵の時代背景が少しでも広がればよい程度に― )
(→その2に続く)