山県有朋~
日露戦争で参謀総長として日本を勝利に導いたとしても、実際の内幕はだいたい前記の通り~ (-。-;)/
※明治42年(1909年)10月 ※日露戦争-ポーツマス講和から4年後。
明治末期から大正初期にかけて山縣の発言力は増大したが、、、同時に反感・反発も大きくなった。
山縣は、軍事専門家としての見地から対外協調の重要性を認識しており、大正4年(1915年)の対華21ヶ条要求を批判した。
同時に、海外からの打診・依頼で日本政府-要人たちが動くことを警戒していた。
山縣が政党を嫌った理由として、“対外硬派”が政党に多く存在したことが挙げられる。
★軍部大臣現役武官制★の制定も、政党政治家が無謀な戦争に走ることを避ける為と考えられている。
※国民の選挙で選ばれたはずの国会議員、その政党政治家が無謀な戦争に走る・・・ という懸念がこの頃あったのか ・・・
次第にマスメディアやそれに煽られた国民大衆がつけ上がり、日本の動向に深く影響を与え始めていた。 ⇒そのような国民が選挙で議員を選んでいた・・・
議員は当選する為に、愚民に迎合するのは何も日本だけでなく、現在のアメリカなどでも、ごく一般的・・・
(物事は本来ニュートラルなもの、民主主義、選挙制度と云えどもプラマイあり。民主主義が衆愚政治に堕ちて滅びたのは古代ギリシャが良い例。現代もそうならないという保障はどこにもない―― )
※軍部以前に、一般国民自身が増長し始めたのは免れ得ないかも・・・
(支那中国大陸など、荒れ狂って、それ以前の問題で論外だった・・・ 妖魔大衆の国。)
★軍部大臣現役武官制★~
後に、この制度が悪用されて、陸軍の我がままを通す、云う事を聞かなければ、陸軍から陸軍大臣を出さない、結果、内閣総辞職せざるを得なくなるという悪循環に・・・
※まともな、正常な、内閣運営ができない状態に・・・
昭和天皇の御妃選び、その候補選定に絡んだ― 「宮中某重大事件」に深く関わり過ぎて、タダでさえ人気が低かった山縣有朋の権威が失墜 してしまった。
大正11年(1922年)2月1日、失意の内に肺炎と気管支拡大症のため小田原の別邸で逝去。(83歳) (x_x;)
葬儀は同年2月9日に国葬として行われた。
1ヶ月前に病没した大隈重信の葬儀が国葬ではなく「国民葬」とされ、
(ノ_-。) 。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。 ( ´(ェ)`) (´・ω・`) (´_`。) (w_-;
多数の民衆が集まったのと比較すると、
★『国葬』★として行われた山縣の葬儀は閑散としたものだったとか・・・ (:_;) (:_;) (:_;)
(  ̄っ ̄) ( ̄へ  ̄ 凸 ( ̄∩ ̄#/
(当時の日本という国を覆うように力は強大でも嫌われていた、人気が無かったよう・・・ )
(山縣有朋の個人的人物像)
生活は規則正しく、質素倹約なものであった。 (。-人-。)
午前6時の起床後はタオルで体を拭き、食後には槍を振るった。 \(*`∧´)/
後年、和歌を詠み、また漢詩、仕舞、書を好んだ。茶人として、また普請道楽、造園好きとしても知られる。 (´0ノ`*)
ドイツ帝国宰相ビスマルクと参謀総長-大モルトケを深く尊敬していた。 (ノ゚ο゚)ノ
〔オットー・フォン・ビスマルク〕■〔ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ〕
※大モルトケ
「モルトケ」はプロイセン~ドイツ帝国の軍人、軍事学者。
(甥は区別する為に、“小モルトケ”と呼ばれている。)
明治の元勲として陸軍の基礎を作ったことから、軍部への影響力は大きなものがあった。
これと見込んだ軍人や官僚を要職に就けて見捨てることがなく、これが自然と「山県系」ともいえる人脈を形成した。
超然主義の領袖として、自由民権運動の弾圧や大逆事件を積極的に推し進めた。
近年、山縣有朋の評価は変わりつつある面も~
単なる軍閥主義・軍国主義的イメージなど論外~
⇒敗戦後、歴史研究者、大学教授、学生を席巻した共産主義による、“史的唯物論”なる旧約聖書をベースとしたカルト宗教のレッテル=虚像・ウソに過ぎないので~
彼等は、ユダヤ教の密教部分、旧約聖書の構造を見抜けない限り、“歴史”や人物評価など、1000年経っても無理・・・
(未だに国会議員、大学教授、マスメディア、ジャーナリストの世界に信仰者が跋扈しているのは、日本人の恥とでも・・・ )
その山縣有朋~
・下関戦争や三国干渉の苦い経験を経て列強への警戒感をもち続けた。
・欧米人 vs アジア人の「人種戦争」を憂慮する「日中提携論者」でもあった。
(支那中国人の残虐性を見ても、それだけを見てはいなかった。白人社会の優越主義も見逃さなかった。)
・アメリカとも対立すべきでないと説く ⇒★外交的にきわめて慎重な姿勢★をとり続けた政治家の一面もあった。
(同じ日本人の政財界にも目を光らせていた ヾ(▼ヘ▼;) ―― ⇒それがある“歴史的な事件”へと繋がって行ったかのよう・・・ )
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(→その32に続く)